本塁打を打ち、ダイヤモンドを走っているとき、男はいったい、なにを考えているのか。小便をちびりそうな思いをこらえ、体をぶるぶるふるわせながら走るだけなのか。
そうではない、これで首がつながったと家族を考え、年俸を計算しながら走る男もいる。そして、これから書く梨田昌崇捕手(浜田高、近鉄)は、12年前に他界した父親豊さんを思い出しながら走っていた。
昭和55年10月8日、西武所沢球場で西武対近鉄12回戦が行われた。球場にやってきた近鉄ナインは、だれかれなしに顔がひきつっている。当然の話である。もし、この試合で西武が勝てば、その瞬間、近鉄は優勝争いから脱落、日本ハムの優勝が決定するのである。
もう少し前後の事情を説明しよう。その前日の7日、後楽園球場で日本ハム対近鉄13回戦が行われた。ここで日本ハムが勝てば、日本ハムの自力優勝が決まる。ところが試合は6対5で近鉄が勝った。つまり日本ハムの自力優勝は消えたわけだ。
そのかわり、こんどは近鉄の逆転優勝の見通しが出てきた。8日の対西武12回戦と11日の藤井寺球場での対西武13回戦に連勝すれば、奇跡の逆転優勝である。だが前にも書いたように、対西武2連戦のうち、どちらかで負ければ日本ハムの“他力優勝”が実現する。いってみれば、この試合こそ、近鉄にとっては100万トンの鉄より重い意味を持つ。だからこそ、近鉄ナインの顔はみんなひきつっているのだ。
さて、試合は松沼弟(西武)と村田辰美投手(近鉄)の先発で始まった。近鉄は二回無死、四番・指名打者マニエルが右前安打、五番・栗橋茂左翼手も中前安打して一、二塁と持ち込んだ。しかし六番・アーノルド二塁手は右飛、七番・羽田耕一三塁手は三振、二死となった。
ここで八番梨田に打順が回ってきた。カウント1─2後の4球目、梨田は松沼弟の速球を中越え本塁打した。優勝するのかしないのか、100万トンの鉄より重い意味を持つ試合で、梨田は先制3点本塁打したのである。それならなぜ、梨田は12年前に他界した父親豊さんを思い出しながら、ダイヤモンドを走ったのか。
「この日がおやじの命日なんです。その朝、おふくろ(栄子さん)から“お父さんの命日よ”って電話もありましたし、命日だなと思いながら球場に行ったんですよ。二塁ベースを回るとき、風になびく球団旗を見てハッとしたんですが、試合開始してずっと無風状態だったんです。捕手というのは、いつでも風向きに神経をつかってますから、間違いありません。
ところが、走りながら見ると、風向きがホームからセンターに向かって強風なんです。おそらく私の打席のとき、この風向きに変わったんでしょうね。胸がじーんとしましたねえ。死んだおやじが、命日に、私に本塁打を打たせてくれたんだと——。その晩、風向きのこと、おふくろに電話しました」(梨田昌崇)
父親豊さんは昭和43年10月8日、肝臓ガンのため浜田市黒川町の国立浜田病院で息を引き取った。中学3年生の梨田は、こらえてもこらえても、声を出しながら泣いた。それから12年の歳月が流れ、その豊さんが13回忌に息子の梨田に本塁打を打たせたという。
これは余談だが、美男の梨田はバレンタインデーに、毎年200個前後のチョコレートをもらう。また55年12月まで日生球場近くの3LDKのマンションに、栄子さんと一緒に住んでいたが、毎晩“梨田親衛隊”数十人がやってきて大騒ぎする。その果てに壁に落書きするので、弱り果てたマンション管理人が“梨田選手への伝言板”という黒板を玄関においた。
それでも騒ぎがおさまらない。とうとう梨田は引っ越した。そういう美男・梨田も、命日におやじが本塁打を打たせてくれたと、本気で思う“日本人”なのである。本気で思っているか、いないかは、取材していて梨田の語り口、真心のこもった声で、私にもジーンと伝わってくるのだ。
近鉄はこの試合を5対1で勝ち、11日の西武13回戦でも10対4で連勝、あの逆転優勝をやってのけた。
昭和34年6月25日、後楽園球場で巨人対阪神11回戦が行われた。プロ野球46年の歴史をひもといて名勝負・名場面ベスト3に入る天覧試合がこれだ。そして天覧試合ときけば、中年男たちは涙を流すようにしていう。
「あの村山実が投げ、あの長島茂雄がさよならホームランした——」その通りである。
しかしスコアブックを丹念に指先で追っていくと、巨人は七回裏一死後、一塁走者の坂崎一彦右翼手をおいて、六番・王貞治一塁手が小山正明投手から2点本塁打して、4対4の同点に持ち込んでいる。
この王の2点同点本塁打があったからこそ、長島茂雄三塁手のサヨナラ本塁打が生まれた。
だが歴史というか、運命なんて不思議なものだ。“天覧試合”の4文字が出るたびごとに、百%長島茂雄の名前は出てくるが、王貞治の名前はただの一度も出てこない。王だって人間だ。無念の思いがあるだろう。
「オレの2点同点本塁打と、長島さんのサヨナラ本塁打が、もし逆になっていたら——」
そういう気持ちもきっとあると思う。ここらあたりのめぐり合わせが、持って生まれた星とでもいうのだろうか。
さて、梨田の話題に移ろう。近鉄球団史を追跡調査していくと、なんと梨田が天覧試合の王、平野光泰中堅手が長島に相当する試合にぶつかる。私には梨田の無念の思いが、痛いほどわかるのだ。
昭和54年6月26日、大阪球場で南海対近鉄13回戦が行われた。近鉄にとって、この試合はどんな意味を持つのか。
実はこの試合の始まる時点でマジック1、つまり近鉄はこの試合に勝つか引き分ければ、前期の自力優勝決定なのである。だから大阪球場入りしたとき、近鉄ナインはみんな小便をちびりそうな顔つきをしていた。
そういう試合で、平野は八回裏二死後、パ・リーグ史上に残る名勝負・名場面といわれ、またパ・リーグ最高の本塁送球をやってのけた。1対1の同点で迎えた八回二死後、南海は二塁走者の定岡智秋遊撃手、一塁走者の藤原満三塁手をおき、二番・新井宏昌左翼手の代打・阪本敏三が、ゴロの中前安打した。
「南海が勝ったあ。近鉄の自力優勝は消えたあ」
だれもがそう思った。ところが次の瞬間、こんどはだれもが腰を抜かした。平野がゴロを片手捕球すると、ノーバウンドで本塁ストライク送球をし、二塁走者の定岡をアウトにした。かくて試合は1対1の引き分けとなり、近鉄の自力優勝は実現した。だから話がこの南海戦におよぶと、“最高殊勲選手”として平野の名前が登場する。
それなら近鉄の1点を叩き出した男は誰なのか。
近鉄は二回一死後、六番・羽田耕一三塁手が左前安打、七番・永尾泰憲二塁手(現阪神)の投ゴロで二進したあと、八番梨田の中前安打で先取点を入れた。この貴重な1点があったからこそ、平野の本塁送球が生きたのである。
だが歴史はそうは伝えない。天覧試合の名前が出ると長島茂雄が語られるように、近鉄の前期自力優勝が伝えられるとき、かならず平野の「優勝を決めた執念のバックホーム」が語られる。
そのとき、あの1点は梨田が叩き出したんだという言葉を、私はいまだに聞かない。
「あのバックホームが二回に起き、私の打点が八回に出ていたら、世間の評価はどうなっていたかなあ、なんてよく思いますねえ。でも世間の評価がどうであれ、私はあの試合で1点を叩き出したんだという誇りを持っています」(梨田昌崇)
しかし言葉の行間というか、はしはしに無念の思いがこめられているのを、私は受けとめるのだ。
名勝負・名場面の舞台裏には、王貞治や梨田昌崇のような、やり場のない思いがうずまいている。