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運命を変えた一球29

时间: 2019-05-09    进入日语论坛
核心提示:篠利夫 チャンスはするりと回ってくる 篠利夫二塁手(銚子商、巨人)に、本書の企画を説明した。すると、どんな返事が返ってき
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篠利夫 チャンスはするりと回ってくる
 
 篠利夫二塁手(銚子商、巨人)に、本書の企画を説明した。すると、どんな返事が返ってきたのか。“サヨナラ本塁打”で体をぶるぶるふるわせた感動か。それとも“サヨナラエラー”で流した涙なのか。そのどちらでもなかった。
 彼の返事はなんと“敬遠”ばなしであった。運命を賭ける場面に敬遠された、なんともいえない空しさというか、やり切れなさが、いつまでも忘れられないというのである。
 昭和50年7月27日、千葉市の天台球場で第57回全国高校野球・千葉県大会の準決勝、銚子商対習志野高戦が行われた。銚子商は1回戦不戦勝、2回戦は東総工に4対2、3回戦は千葉高に7対1、4回戦は成東高に2対1、5回戦は一宮商に7対0で勝ち、準決勝に上がってきた。
 習志野高も1回戦不戦勝、2回戦は君津農林に10対0、3回戦は千葉日大一高に8対0、4回戦は千葉商に11対5、5回戦は天羽高に3対1で勝ち、準決勝で銚子商とぶつかった。
 さて、この試合前、習志野高・石井好博監督はミーティングでこういう話をしている。
「ピンチ場面で篠利夫三塁手(銚子商時代は三塁手)を迎えたら、満塁以外は敬遠する」
 石井監督はなぜ、篠徹底敬遠作戦を採用したのか。その根拠は1年前、つまり篠が2年生当時における粘り強い打撃である。
 銚子商は49年8月、甲子園球場で行われた第56回全国高校野球選手権大会に優勝したが、この5試合で四番・篠は、打ちに打ちまくった。打数19、安打8、打率4割2分1厘、打点5、もちろん優勝校銚子商の首位打者である。それが3年生になって、もっとパワーをつけてきた。
「昭和50年度と限定すれば、篠君は千葉県というか、関東高校球界ナンバーワンの打者でしたから、初めから勝負しないときめてたんですね」(石井好博) 
 試合が始まった。先取点をあげたのは習志野高である。習志野高は四回一死後、四番・岩崎勝己左翼手が中前安打したあと、五番・小川淳司投手(現ヤクルト)が初球、ストレートを左翼席本塁打して2対0とした。こういう戦況の中で、篠にとっては一生忘れられないシーンが訪れてくる。
 銚子商は六回一死後、一番・宇野勝遊撃手(現中日)が三ゴロで二死となった。しかし二番・林淳一中堅手が右中間二塁打、三番・前鳩哲雄捕手が中前安打して1点、その差を1点に追い上げた。ここで打順は四番篠に回ってきた。
 小川のコントロールが甘くなり、ボールが真ん中に集中しはじめた。篠が左打席に立ったとき、石井監督が立ち上がってうなずいた。
「ミーティングで決めた通り篠を敬遠しよう」というサインである。捕手が立ち上がった。
「最初はあっと思いましたね。二死一塁走者の場面で敬遠なんですから。次になんともいえない、空しさというか、無念の思いがこみあげてきましたねえ。プロ野球はきょうだめでも、あした勝負できますよ。高校野球の3年生はこの試合をのがしたら、一生もどってこないんですからね」(篠利夫)
 篠が敬遠されて二死一、二塁としたが、五番・平野和男右翼手が三ゴロ、小川重信三塁手が捕球、菱木大功一塁手に送球してアウト、1点差はちぢまらない。
 試合は2対1のまま習志野高が勝った。それだけではない。習志野高は決勝戦でも君津高に5対2で勝ち、甲子園出場を決めた。そして1回戦は抽選勝ち、2回戦は旭川竜谷高に8対5、3回戦は足利学園に2対0、4回戦は磐城高に16対0、準決勝は広島商に4対0、決勝戦では新居浜商に5対4で勝ち、優勝するのである。
 それだけに篠の胸の中には「あのとき、あの1点差場面で勝負させてくれたら」という思いが残る。記録はただの“四球”でも、人間の|怨念《おんねん》のこりかたまったのが敬遠である。
 昭和56年5月4日、後楽園球場で巨人対阪神6回戦が行われた。巨人は四回一死後、当時三塁手だった中畑清を一塁走者におき、五番・原辰徳二塁手が三ゴロを打った。掛布雅之三塁手は岡田彰布二塁手に送球、中畑を二封した。
 このとき二塁ベース上で、中畑と岡田がもつれ、中畑は左肩を痛めて退場した。このため原が三塁に回り、控えの篠が二塁手をつとめた。
 中畑の左肩痛は意外と長びき、それから2試合、藤田元司監督、王貞治助監督、牧野茂ヘッドコーチは打順編成に苦労した。たとえば5月5日のナゴヤ球場での中日対巨人3回戦では二番篠、三番に打率2割5分9厘の淡口憲治左翼手を起用。8日の横浜球場での大洋対巨人6回戦も三番淡口で先発したが、六回その淡口に代打・松本匡史を送っている。しかも三番打者のとき淡口は打数6、安打0であった。
 さて話は5月9日、横浜球場での大洋対巨人7回戦の試合前に移る。王助監督が藤田監督、牧野ヘッドコーチを口説き始めた。
「篠はこの2試合で4打数3安打しているんですよ。三番篠でいきましょう。実力、センス、三番でいけます」
 決断のつかない藤田監督を王助監督は、なお口説きに口説く。こうして当日の先発メンバーは、次のように決まった。一番・河埜和正遊撃手、二番・松本匡史左翼手、三番・篠利夫二塁手、四番・ホワイト中堅手、五番・原辰徳三塁手——。
 篠をめぐって55年12月には“婚約解消”事件があった。球団から1カ月の謹慎処分を受け、自動車もBMWを手放し、国産小型車にするなど、じっと耐える期間だった。そこへ原が入団し、二塁のポジションまで取られた。ふんだり、けったりである。
 そういう篠の前に、中畑の左肩痛が回り回って、先発・三番というチャンスが訪れた。
「ロッカーにいたら山崎弘美マネジャーがきましてね。“おいシノ、お前三番だぞ”っていうんですよ。ウソでしょっていったんですけれどね、発表を見たら三番になってました」(篠利夫)
 巨人は一回無死、河埜が左翼二塁打、松本の遊ゴロを山下大輔遊撃手がエラー。一、三塁の場面で篠が打席に入った。
 カウント1─1後の3球目、篠は斎藤明雄投手の外角シュートを左中間二塁打して2打点をかせいだ。いきなり三番打者成功である。二塁走者になった篠に、王助監督が立ち上がって10回以上も拍手を送る。
 これだけではない。篠は入団以来6年間、初めての三番で打ちまくった。第2打席は中前安打、第3打席は右翼線二塁打、第4打席は投ゴロ、第5打席は中前安打で5打数4安打、4打点である。
 だが、観客3万人をうならせたのは、5打数4安打の打撃ばかりではなかった。大洋は七回一死後、八番・福島久晃捕手が二塁ベース寄りのゴロを打った。
「中前へ抜けた」
 だれもがそう思った。それを篠が逆シングルで捕球した。しかし一塁送球できる体勢ではない。すると次の瞬間、風のように河埜が接近してきた。篠は河埜にトス。河埜が山本功児一塁手に送球して福島をアウトにした。
「三番も初めて、4安打も初めてなら、福島さんをアウトにしたあの河埜さんとのプレーも初めてでしたね」(篠利夫)
“婚約解消”という苦しい時期がバネになって、篠はこのチャンスをつかんだのか、それとも天性の打撃センスのためなのか。私はその二つをひっくるめたのが、篠の人生だと思っている。
 7対3でこの試合を勝ち、ロッカーへもどってきた王助監督は、左肩痛で見学していた中畑へいったそうだ。
「おい清。お前、大変だぞ。ケガが治っても、お前の出番がなくなるぞ。三塁は原だし、二塁は篠だしなあ」
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