近鉄の“斬り込み隊長”平野光泰中堅手(明星高、近鉄)は、昭和52年11月30日、納会の席上で球団から“ガッツ賞”をもらった。だが、私は平野を取材して思うのである。
「男がガッツ賞をもらう裏側は、なんて悲しいことなんだ」
昭和52年9月12日、平野の母親シゲ子さん(55歳)が、胃ガンのため亡くなった。平野は明星高1年生の夏、つまり昭和41年8月31日、父親欽也さん(47歳)を肝臓病で亡くしているから、これで両親がいなくなった。当時、平野は28歳である。なのに、少年のように泣きに泣いた。
翌13日午後1時から大阪・吹田市新芦屋下22番地の平野の自宅で葬儀が行われた。この葬儀に西本幸雄監督、鈴木啓示投手、梨田昌崇捕手などがやってきたのか。一人も姿を現さなかった。実は当日、午後2時から藤井寺球場で近鉄対南海10回戦が行われ、葬儀が始まったころは、ちょうど打撃練習が終わったばかりだから、行きたくても行けないのである。
平野をめぐる腰を抜かすようなエピソードは、葬儀の真っ最中に起きた。長男であり、当然喪主である平野が突然、いいだしたのである。
「おれ、これから藤井寺球場に行って試合をする——」
これを聞いて親類が途方にくれた。いいだしたら最後、あとへ引っ込まない平野の性格を知り抜いているからだ。次に和子夫人が泣き出した。
「あなた、きょうはなんの日なの。お母さんの最後のお別れなのよ。それでもあなた、野球に行くというの。親類や球団の方、ご近所の方もお別れにきて下さっているのよ」
最後は涙声で声にならない。
しかし平野の試合に賭ける執念というか、いいだしたら誰がなんといおうときかない頑固ぶりというか、本当に母親の葬儀の途中を抜け出し、藤井寺球場へかけつけた。プロ野球46年の歴史を振り返って、母親の葬儀の途中脱出し、試合にかけつけたのはこの平野ひとりしかいない。
平野は葬儀の始まる前から途中脱出を計画していたのか。それとも葬儀の途中で突然、そういう気持ちになったのか。そこらあたりを私は、平野にしつこく質問した。
「計画的ではありませんでした。突然、いまからなら(試合に)間に合うと思ったら、もうたまらなくなって——というのが本音ですね。親類の者は、なにもいいませんでしたし、女房も途中であきらめたようです」(平野光泰)
平野がユニホーム姿でダグアウトへ現れたのは八回表である。戦況は2対1、南海がリードしている。
「平野、お前、お母さんの——」
西本監督はそれっきり絶句したそうだ。
近鉄は八回一死後、二番・石渡茂遊撃手が遊撃内野安打に出ると、三番・小川亨一塁手のところで、平野が代打に登場した。そして佐々木宏一郎投手から1─2後の4球目、シュートを中前安打した。この1本の中前安打こそ、近鉄球団史上、忘れることのできない「平野の葬儀逆転安打」となった。
なぜなら、このあと代打・白滝政孝の中前安打、佐々木恭介右翼手の右前安打とつながり、近鉄は4対2と逆転勝ちしたのだから。
「家へ帰ったら、女房がまた泣いていましてね。球団が逆転のこと連絡してくれたんです。その泣き顔見たら、やっぱり行ってよかったと思いましてね」(平野光泰)
平野は酒を飲むと自慢しだす。
「おれの太ももの太さは、あの大関貴ノ花の太ももと同じ太さなんだ」
そういう男が女房の泣き顔を見て、じーんと胸を熱くする。何度も言うが、プロ野球は反射神経の天才がやっているのではない。人間がやっているのである。
こうして平野は納会の席上“ガッツ賞”をもらっている。この平野の執念みたいなものが、2年後の昭和54年6月26日、大阪球場で行われた南海対近鉄13回戦の八回裏二死後、「パ・リーグ史上、もっとも歴史的な本塁送球」となって現れる。
「あの試合でしみじみ悟りましたねえ。勝負を決めるのは運もある、技術もある。だけど一番大切なのは勝とう、勝ちたいという執念。執念以外にないんだと」(平野光泰)
平野が勝負で一番大切なのは執念だと悟ったのは、昭和54年6月26日、大阪球場で行われた南海対近鉄13回戦、つまり近鉄にとっては前期最終戦である。この試合が近鉄にとって100万トンの鉄のかたまりより重い意味を持つわけは、次の資料を見てもらえばわかる。
この試合に入る前の時点で、近鉄は「試合数64、39勝19敗6分け、勝率6割7分2厘」で首位。2位は阪急で「試合数62、38勝20敗4分け、勝率6割5分5厘」でゲーム差1。もっとくだいていえば、近鉄のマジック「1」。要するにこの南海戦に勝つか引き分けるかすればマジック「1」が消え近鉄の前期自力優勝が決まるという話である。
だから、平野も小川亨一塁手も栗橋茂左翼手も、みんな小便をちびりそうな思いで大阪球場にやってきた。試合は佐々木宏一郎投手(南海)と村田辰美投手(近鉄)の先発で始まった。先取点をとったのは近鉄である。二回二死後、二塁走者に羽田耕一三塁手をおき、八番・梨田昌崇捕手が中前安打して1点を入れた。
だが南海も自分の本拠地球場で、しかも目の前で西本幸雄監督の“胴上げ”は見たくない。四回二死後、三塁走者に藤原満三塁手をおき、四番・指名打者の王天上が中前安打、1対1の同点に持ち込んだ。
こうして場面は運命の八回裏、南海の攻撃に移った。七番・久保寺雄二中堅手が三ゴロ、八番・定岡智秋遊撃手が右前安打、九番・黒田正宏捕手が一飛で二死となった。しかし一番藤原が右前安打して一、二塁。ここで広瀬叔功監督は二番・新井宏昌左翼手の代打に阪本敏三を送った。
ここから、パ・リーグ史上に残る名場面・名バックホームの幕開けである。
「阪本さんが打席に入ったとき、まず長打はないと判断しました。それに二死ですから3メートルほど浅い守備位置をとりました」(平野光泰)
カウント2─2後の5球目、阪本は中前安打した。打球は3メートルほど前進守備をとった平野の正面へゴロで転がった。1対1の同点だから、二塁走者の定岡を本塁でアウトにすれば引き分け、そして自力優勝という段取りになる。
「ゴロが二遊間を抜けたと思った瞬間、体中が火のように熱くなりましてねえ。アウトにしろ、アウトにしろ、この執念だけですよ。3メートルほど前進守備していたのも助かりました。両手捕球なんかやっている余裕ありませんよ。ゴロを片手捕球すると、これでもかーというバックホームでしたね」(平野光泰)
魂が乗り移った本塁送球とは、このことを指すのか。平野の指先を離れた送球は、地面をなめるように伸びて梨田のミットにノーバウンドでとどいた。
「ど真ん中のストライクというより、胸のあたりでちょっと高かったかな。タイミングは間一髪ではなく、間のあるアウトでしたね」(梨田昌崇)
主審・久喜勲のアウトの判定を見たとき、平野は全身がしびれた。
「梨田と、あのバックホームでよく話し合うんですが、最後はいつもひとこと“あの送球でよかったなあ”で終わるんです。真夜中に目がさめて、よくあの場面を思い出しますよ。もし1メートル左か右にズレていたらと思うとゾッとしますね」(平野光泰)
試合は1対1の同点で引き分け、ここに近鉄の前期優勝は決まった。“胴上げ”された西本監督は、ロッカールームにもどると、一人ひとりと握手をした。だが平野の顔を見ると握手をしなかった。そのかわり「ありがとう」といって両手で平野の右肩をさすったそうだ。