最初に“グラブ”ばなしを書く。昭和21年から27年までの7年間、金星、東急、西日本、西鉄に在籍した清原初男三塁手(立大)の“6本指グラブ”をめぐる話である。
清原は東急時代のある日、なにげなくグラブを見つめているうち、とんでもない発想にとらわれた。6本指グラブを使ってみたらという発想である。
当時のグラブは親指と人差し指の間に、細い革ヒモがあった。なにかの拍子に革ヒモの間をボールが抜けたり、革ヒモが切れたりする。
「この親指と人差し指の間に、もう1本、指型をつくって6本指にしたら、革ヒモより打球に対して、より完全なカベができるのではないか」
そう考えた清原は、本当に運動具店に相談、6本指グラブを作った。日米野球史上、6本指グラブをはめたのは、この清原ひとりしかいない。彼はこのグラブをはめながら、終身打率2割3分9厘、本塁打14本を記録している。
清原の話でもわかるように、プロ野球選手ならだれでも、商売道具のグラブに神経をつかう。
さて、話題を中政幸外野手(中大、大洋)に移そう。中は身長1メートル72しかない。
「それなのに入団した時から、グラブはローリングスのやたらに大きいのをはめてましたよ。腕が短い分、グラブの指の長さでカバーしようという心理が、働いていたんでしょうね」(中政幸)
そういう中に別当薫監督は、こんな注文をつけていた。
「おい中、お前みたいに指の短い者が、そんな長いグラブはめたって、ぴたりくるわけがないじゃないか。グラブの指先まで捕球感覚が伝わらないもの。外野手出身のおれのいうことに間違いないよ。指の短いお前は小さめのグラブにしろ」
しかし、中は代えようとしない。それが、これから書く試合を境にして小さめのローリングスに買い替えたのである。
昭和53年9月7日、神宮球場でヤクルト対大洋24回戦が行われた。試合は前半、大洋ペースで展開した。二回表、四番・松原誠一塁手が左翼席本塁打、四回表には一塁走者に松原をおき、五番・高木嘉一右翼手が右翼席本塁打して2点、合計3対0とリードした。
ところがヤクルトは六回裏、五番・マニエル右翼手が右翼席本塁打して1点、七回裏には代打・福富邦夫の右翼線二塁打、一番・ヒルトン二塁手の右犠飛などで3対3の同点とした。
そして中の商売道具を代えさせるシーンが起きたのは、八回裏一死後であった。一塁にマニエルをおき、六番・杉浦享左翼手は門田富昭投手のストレートを叩いた。打球は中堅深く舞い上がっていく。
「あの日はセンターを守っていましてね。打球が45度の角度でとんできたので、バックスクリーン前まで走れたんですよ。あとは夢中ですよ。ジャンプして打球にとびつく、グラブの先端に打球が入る、どーんとフェンスに体当たりする、ボールがグラブからポロッと抜けてフェンスを飛び越え、バックスクリーンに落ちてホームランになる——。すべて一瞬のできごとですね。時間にしたら1秒の半分ぐらいじゃないですか」(中政幸)
理屈はどうであれ、一度中のグラブに入ったボールが、ポロッと抜けて本塁打になったのはたしかである。これでスコアは5対3になった。八回裏ヤクルトの攻撃が終わって、中が三塁側ダグアウトへもどってくると、別当監督の顔色が変わっていた。
「コラッ、中。いつもおれがいっているじゃあないか。指の短いお前が、バカでかいグラブをはめているから、神経がグラブ全体に行きわたっていない。いまだって小さいグラブをはめていたら、とび出すはずがないんだ、この野郎——」
試合は大洋が5対3で負けた。中が捕球していたら、引き分けですんだかもしれない。
「人間、万事ほどほどです。あの落球ホームラン事件から、私の体格に合ったローリングスをはめていますよ。ほどほどがめでたいようですねえ」(中政幸)
昭和44年4月13日、甲子園球場で阪神対大洋2回戦が行われた。この日、中は、スタートメンバーとして出場、五番・一塁手である。
中がまだプロ2年生時代の話だった。だが相手が悪すぎた。村山実投手である。試合が終わってみたら、中は4打数3三振を記録していた。
中1日おいた15日、こんどは神宮球場(当時は変則だが、大洋が神宮球場を使用していた)で、大洋対広島1回戦が行われた。この日も中は先発で三番・一塁手である。だが、やっぱり相手が悪い。外木場義郎投手で2打席2三振、途中から引っ込められた。
さてその夜、試合が終わると中は別当薫監督によばれた。
「なあ中。この2試合でお前は6打席5三振している」
「はあ」
「お前は2年生、相手は村山と外木場。三振するのが当たり前といってしまえば、話はそれまでだ」
「はあ」
「しかし、お前もカネをもらっている以上プロだ。プロならプロらしい、ありようというものがあるはずだ。残念だが、18日からの巨人戦にはお前を外す」
中は自分の顔から血の気がひいて行くのが、自分でわかった。
中のニックネームを“チョンボの政”という。なぜ、このニックネームがつけられたのか。
あるミーティングのとき、別当監督がいいだした。
「野球はチョンボの出た方が負ける。最近そのチョンボが多い」
ただし別当監督は誰がとはいわない。すると突然、中が立ち上がって、最敬礼しながらいった。
「まことに申しわけございません」
以来、同僚は中を“チョンボの政”とよぶ。
そういう好人物の中でも、別当監督の言葉は胸に突き刺さった。プロ2年目でせっかくつかんだレギュラーの座を開幕4試合目で失ってしまうのか。
合宿に帰った中は眠られない。おれの野球人生はこれで終わりなのかとも思う。だが、明け方近くまで苦しみ抜いた中は、やっと結論みたいなものをつかんだ。
「くさったらおれの負けだ。人生、くさったヤツに幸せなど訪れる道理がない。いつチャンスが回ってきても慌てないように、剣を磨いて待つことだと思ったんです」(中政幸)
この時点の中は24歳である。昭和ひとけたの私でさえ、ここまではなかなか気持ちの整理がつかないと思う。
ところが、人間の運命なんて不思議なものだ。それから5日後、中にもう一度チャンスが回ってきた。20日、川崎球場での大洋対巨人3回戦に先発、一番・一塁手としての出番が訪れた。
「巨人戦の間、球場でも合宿でも走り込み、素振りをやってましたから、“きたか!”って感じで体が一瞬ふるえましたね」(中政幸)
試合が始まり、巨人は一回表3点を入れた。この年、三番・王貞治一塁手は打率3割4分5厘、本塁打44本、打点103点、四番・長島茂雄三塁手は打率3割1分1厘、本塁打32本、打点115をかせいでいる。その巨人が一回3点だから、だれもが勝負あったと思う。だが一回裏、一番中は渡辺秀武投手から右翼席本塁打して3対1とした。2点差ではわからない。
巨人はまた三回に3点を入れ、三回終了で6対3とした。
「こんどこそ巨人の勝ちだ」
だれでもがそう思った。しかし六回、中は一塁走者に代打・重松省三をおき、田中章投手から左翼席2点本塁打し6対5とした。
さて、この試合は7対6で大洋が逆転勝ちした。ヒーローは5打数3安打3打点、2得点の中である。
「あの試合がいまでも心の支えになっていますねえ。迷ったら練習しろ、苦しくなったら練習しろ、それしかないんだという支えですよ。2本目のホームラン打ってもどってきたら、別当さんの目がうるんでたみたい……。なんにもいわなかったけれどねえ」(中政幸)