最初に大杉勝男一塁手(岡山関西高、ヤクルト)とは直接関係のない“西本幸雄ポカリ事件”から書く。
昭和50年5月30日、西宮球場で近鉄対阪急9回戦が行われた。スコアは1対0、阪急リードのまま二回、近鉄の攻撃に移った。
無死一、二塁の場面で六番・羽田耕一三塁手が打席に入った。このとき西本幸雄監督(近鉄)は羽田に「初球は待て、バットを出すな」というサインを出した。
ところが、羽田はそのサインを確認しておきながら、初球を空振りした。あげくの果てにカウント2─2後の5球目、空振り三振した。
羽田が三塁側ダグアウトにもどってくると、西本監督がすーっと出て行った。羽田があっと思ったとき、彼の顔面に西本の左フックが叩きつけられた。これが近鉄球団史上、あまりにも有名な“西本ポカリ事件”である。
ところが、プロ野球史を掘り起こしていくと、これより8年前、試合中にグラウンドで監督が自分の部下をなぐったケースが起きている。それも西本監督のように左フック1発ではない。平手打ちとはいえ、実に6発である。
その上司とは水原茂監督(当時東映)、なぐられた部下とは、これから書く大杉勝男(当時東映)なのだ。だから試合中にグラウンドで監督が自分の部下をなぐった第1号師弟コンビは“水原茂─大杉勝男”、第2号が“西本幸雄─羽田耕一”となる。
さて昭和42年10月27日、東映と中日は韓国ソウル市民球場での帯同試合のため出発。翌28日、同球場で顔を合わした。スコアは4対1、東映リードのうち六回、中日の攻撃に移った。
中日は二死満塁としたあと、二番・高木守道二塁手が遊撃ゴロを打った。三遊間のむずかしいゴロだ。佐野嘉幸遊撃手が深い位置から大杉へ一塁送球した。
「間に合うか、間に合わないかの微妙なタイミングなんですよ。こんなとき、一塁手は捕球より数分の一秒、早く足をベースから離し、審判をけん制するんですね。なにしろ危機一髪の場面ですから、私もそれをやったんです。たまたまその試合の一塁塁審は白仁天さん(当時東映)の出身校、京東高野球部監督で“セーフ。キミの足がベースから離れるのが早すぎる”という判定なんですわ」(大杉勝男)
セーフの判定を聞いた大杉はあわてた。なぜなら捕球の次の瞬間、アウトだと思い込み、二死後だからボールをマウンド方向にころがしてしまった。
セーフと知って高木は二塁へ走る。大杉は夢中でボールをひろって二塁送球したら、これが悪送球で右中間にころがった。なお運の悪い話には、アウトだと思い込んだ外野手が、ダグアウトに引きあげてきている。宮原|務本《かねもと》右翼手が右中間最深部まで追いかけている間、高木もホームインして東映は5対4と逆転された。
ところで、三番・広野功右翼手がまた遊撃ゴロを打った。こんどは完全にアウトのタイミングである。
「なにしろ私も若かった。当時22歳ですからね。頭にきてますよ。佐野さんからの送球を捕球、アウトにしたあと一塁塁審、つまり白仁天さんの恩師の顔をにらみつけながら“これでもセーフか、これでもセーフか”と一塁ベースを三回けっとばしてダグアウトにもどってきたんです。そしたら最前列中央に腰かけていた水原監督が立ち上がって、私の前に歩いてくるんです。怖くて顔を上げられませんでした」(大杉勝男)
身長1メートル81の大杉の前に立ちふさがった身長1メートル70の水原監督は、なんといったのか。
「大杉、いまお前がとった態度はプロ野球人として正しいといえるのか」
返事につまった大杉は、苦しまぎれに答えた。
「正しいと思います」
次の瞬間、水原監督の往復ビンタが合計6発ぶっとんだ。
当日、この試合をテレビ中継していた。カメラマンが見逃すはずがない。こうして“往復ビンタ師弟第1号”は韓国中に放映された。
「鼻血こそ出ませんでしたが、目がくらみました。水原さんは試合が終わっても宿舎に帰っても、なにもひとこともいわない。私も自分の部屋で息を殺していました」(大杉勝男)
帰国してからも水原監督はなにもいわない。返事に困って「正しいと思います」と答えはしたが、自分の行動がいいか悪いかは、大杉自身が一番よく知っている。それだけに胸が痛むのだ。
だが男の運命はなお変転していく。それから約1カ月後、なぐったはずの水原監督が、大杉の肩をかき抱くようにして涙を流す場面が展開するのである。
11月8日から3日間、こんどは東映・西鉄帯同遠征が沖縄・奥武山球場で行われた。そこでも水原監督はなにもいってくれない。だからといって、当時22歳の大杉は自分からあやまりに行く勇気もない。こうして大杉は、衝撃的な11月25日昼を迎えるのである。
このとき、大杉はなに気なく昼のニュースを見ていた。そこへ「東映・水原茂監督解任」が流れた。ニュースによると新監督には当時解説者の大下弘の就任が決定したようだ。
「このままで水原さんと別れるなんて、おれはできない」
そう思った大杉は翌日午前中、東京・目黒区緑が丘2丁目にある水原監督の自宅を訪れた。
「最初は加保子夫人が現れましてね。奥さんは私がなぐられたのを知らないから、別れのあいさつにきてくれたんだろうと喜んでくれました。それから水原さんが出てきまして、愛情あふれるというか、涙のこぼれるような話をしてくれました。そしてこうもいってくれました。おれが解任されたあと、おれの前にきてくれた東映関係者、球団関係者はお前だけしかいないと——。私がプロ18年生、名球会に入れたのも、あの試合で水原さんにぶんなぐられた、あの往復ビンタのおかげなんですねえ」(大杉勝男)
昭和56年11月30日、東京・芝の東京プリンスホテルで「大杉勝男2000本安打・祝賀パーティー」が開かれ、その発起人が水原茂であった。なぐられた試合から14年の歳月が流れていた。