山崎裕之二塁手(上尾高、西武─引退)に、本書の狙いどころを説明すると、ぽんとはね返ってきたのが、18年前のこの試合である。人間、18年たてば記憶もあやふやなものになる。それが山崎の場合、ぽんとはね返ってきた。
「おれがいまあるのは、あのときの、あの試合の、あのプレーがあったからだ」
そういう思いが、いつも山崎の胸の中に住みついていたからかも知れない。
昭和40年8月3日、東京球場で東京(現ロッテ)対西鉄14回戦が行われた。細かな得点経過は省略するが、小山正明投手(東京)と稲尾和久投手(西鉄)の投げ合いで、延長十回終了時点でスコアは3対3の同点である。
さて延長十一回表、西鉄の打順は九番稲尾からだ。稲尾はカウント2─2後の5球目、遊撃手の正面にゴロを打った。遊撃手は新人山崎である。
山崎は「ゴロがきた」——それだけで脳天が火のように熱くなった。あとはよくわからない。気がついたら身長1メートル86のパリス一塁手がジャンプしてもとどかない一塁高投をしていた。こんどは心臓が凍りついたようになった。
これで稲尾は二進。一番・玉造陽二左翼手の捕前バントで稲尾は三進。二番・伊藤光四郎右翼手は三邪飛に終わったが、三番・アグイリー一塁手が1─1後の3球目、中前安打して西鉄は4対3で勝った。
ところで、話は試合終了後における東京ロッカーに移る。
山崎の一塁高投は延長十一回表に出たのだから、“サヨナラエラー”ではない。しかし山崎のエラーで出塁した稲尾がホームイン、決勝点となったのだから、実質的には“サヨナラエラー”みたいなものだ。
真っ青になっている山崎の体を、先輩たちの白い目が、ぶすぶすと突き刺す。
「なんだ6000万円も取りやがって」——その白い目には、そう書いてあった。山崎は昭和11年プロ野球が創設されて以来、昭和40年時点では契約金史上最高の6000万円をもらって入団した。その山崎が“サヨナラエラー”同然のプレーをしたのだから、先輩たちは白い目をむく。
すると、そこへ本堂安次監督がやってきた。
「なあ山崎、さっきのプレーを見たが、お前、(腕が)かじかんでるわ。このまま試合に出ても意味がない。しばらく二軍で勉強してこい」
山崎はくるものがきたと思った。男の運命なんて不思議なものだ。その1年前の39年10月25日には契約金6000万円もらい、「長島茂雄二世、新人王確実」と騒がれた山崎が、シーズン途中で二軍落ちだという。
本堂監督が二軍行きを指示したあと、こんどは濃人渉ヘッドコーチがやってきた。濃人はボソリとした顔つきと声で山崎を誘った。
「山崎、ちょっと話がある。一緒にフロに入らんか」
濃人と山崎は東京球場のフロに入った。
「よく聞けよなあ山崎。きょうの試合はお前のいってみれば“サヨナラエラー”みたいなもので負けた。その結果、お前は二軍へ行く。だが、くさるなよ。実力をつけるチャンスをあたえられたと考えるんだな。それから先輩たちの中には、やっかみ半分のヤツもいる。人間だから仕方がない。だけどなあ山崎、お前がプロ野球で飯を食っていこうとするなら、これだけは忘れるな。“サヨナラエラー”同然でチームに迷惑をかけたら、“サヨナラホームラン”でそれを帳消しにする——それぐらいの気概を持つことだ」
首まで湯につかりながら、山崎はあわてて両目をこすった。湯より熱いものが、不覚にもこぼれ落ちそうになったからだ。
かくて翌日から山崎は二軍に落ちた。だから新人の年、彼は71試合しか出場していない。
それから14年の歳月が流れた昭和54年10月3日、所沢球場で西武対南海13回戦が行われた。ダイヤモンドをゆっくり走りながら「濃人さんの顔が思い出されてならなかった——」(山崎裕之)という快挙を、山崎はやってのける。
細かな得点経過は省略するが、九回表、南海の攻撃が終わった時点で、スコアは7対6、1点差で南海がリードしていた。
さて九回裏、西武の攻撃に移った。無死、一番・マルーフ左翼手の代打・長谷川一夫が、金城基泰投手から右翼席本塁打、7対7の同点にした。これからあとの西武の逆転劇は、竜巻のような速度と破壊力を持っていた。
二番・立花義家中堅手の代打・鈴木葉留彦が左前安打、三番・土井正博一塁手が四球、四番・指名打者・田淵幸一は三振したが、五番・タイロン右翼手は右前安打して一死満塁とした。六番山崎はカウント1─2後の4球目、金城の速球を左中間最深部へ“満塁・サヨナラ本塁打”し、西武は11対7で逆転勝ちした。
山崎は一塁ベースを回った地点でバンザイをした。それから二塁ベースをふんだ瞬間、濃人の顔を思い出した。
山崎は三塁ベースに向かって走りながら、こういう濃人のセリフを耳もとで本当に聞いたと思った。
「悔しかったら“サヨナラ本塁打”を打ってみろ」
東京球場のフロの中で濃人にさとされてから、14年目にそれを実現したことになる。その夜、山崎は東京・新宿区弁天町の自宅、クレセントマンション602号室へ帰ってくると、栄子夫人がとびはねるように出てきた。
「友だちから満塁サヨナラ本塁打したよって、電話が何本も入っていましたから、女房はもう知ってました。でも濃人さんの話は私だけの問題ですから。新人時代のあのエラーとプロ15年生で打った、あの満塁サヨナラ本塁打は忘れられないなあ」(山崎裕之)
山崎二軍落ちの判断をし、指示をしたのは本堂安次監督である。それはそれでいい。だが濃人のような、心の温かい管理者がいたからこそ、それから14年間もすぎて、熱狂する所沢球場の中で山崎は、濃人の顔とセリフを思い出した。
突き放し、知らん顔するだけなら、だれでもできる。欲しいのは湯のように熱い心なのである。