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運命を変えた一球38

时间: 2019-05-09    进入日语论坛
核心提示:河埜和正 サル業を生んだ舞台裏「あれは人間業ではない。サル業だ」といわれたプレーが、プロ野球史上三つある。そのサル業を書
(单词翻译:双击或拖选)
河埜和正 “サル業”を生んだ舞台裏
 
「あれは人間業ではない。サル業だ」といわれたプレーが、プロ野球史上三つある。そのサル業を書く。
 昭和49年7月22日、西宮球場でオールスター第2戦が行われた。3対2とリードした全セは五回一死後、二塁走者に藤田平遊撃手(阪神)、一塁走者に衣笠祥雄三塁手(広島)をおき、三番・田淵幸一捕手は神部年男投手(当時近鉄、現ヤクルト)から、左中間最深部へ45度の角度で大飛球を打ち上げた。
 福本豊中堅手(阪急)は打球を追ってラッキーゾーンへ接近、あっと思った次の瞬間、音もなく金アミのてっぺんによじのぼった。そして上半身をラッキーゾーンへ30センチほど倒し、グラブを高々と差し出した。すると打球はすーっと、そのグラブに吸いこまれた。「あれは人間じゃない。サルだ、サル業だ。サルの演技だ」とうなったのは、長島茂雄三塁手(巨人)である。
 次のサル業人間に移ろう。
 昨年9月16日、西宮球場で阪急対ロッテ11回戦が行われた。一回表一死後、二番・弘田澄男中堅手は山田久志投手から左翼方向に飛球を打ち上げた。山森雅文左翼手は左斜めに背走して行く。打球は山森の頭上を越え、ラッキーゾーンに落ちるかに見えた。
 このときである。山森はするすると金アミによじのぼった。ここまでは福本と同じだが、これから先が違う。福本の場合、下半身を金アミにひっかけ、上半身だけを金アミの上からラッキーゾーン内部へ30センチほど倒した。つまり下半身そのものはグラウンドに残っていた。
 だが山森の場合は違う。するすると体全部が金アミのてっぺんに登りきった。金アミ頂上部の金具は横幅3センチぐらいしかない。そこに右ひざをつき、左足スパイクを乗せ、バランスを保った。それからぱっと左腕でグラブを差し出すと、1秒の何分の1後、スポンと打球はグラブに入った。
 山森は捕球後、3メートルも頂上からグラウンドにとび下りた。山森は後楽園にやってくると、外野フェンスの頂上部、横幅約10センチの上を走って“フェンス上捕球”の練習をするそうだ。
 いまから34年前、平山菊二左翼手(当時巨人)という“へい際の魔術師”がいたが、山森こそは“金アミ上の魔術師”である。
 さて3番目に登場する“サル業人間”が、これから書く河埜和正遊撃手(八幡浜工、巨人)である。
 昭和49年7月27日、川崎球場で大洋対巨人13回戦が行われた。大洋は二回裏二死後、三塁走者に江尻亮右翼手、一塁走者に松原誠一塁手をおき、四番・シピン二塁手が打席に入った。
 シピンは下手投げに弱い。そこで川上哲治監督はここで関本四十四投手を下手投げの小川邦和投手に代えた。カウント1─1後の3球目、小川は外角高めに流れるカーブを投げた。いつものシピンなら空振りしてくれる。それがこの日に限って、出合い頭にジャストミートした。
 打球はジェット戦闘機が離陸するように、目もくらむようなスピードで左中間方向へとんだ——。だれもが左中間二塁打か三塁打かと思った。ところがどうだ。打球は途中でぱっと消えた。なぜ消えたのか。河埜がなんと“垂直とび80センチ”で空中で浮き上がり、宇宙遊泳のように捕球したのである。
 もつれにもつれたこの試合も11対6で巨人が勝ち、小川が勝ち投手になった。もし河埜の宇宙遊泳守備がなかったら、巨人は勝てていたかどうか。
「あの守備で“おれは遊撃手として飯を食っていける”という自信みたいなものが出てきましたね。たしか三塁寄りに三歩ほど走ったあと、ジャンプしたと記憶してます。グラブのアミに打球はひっかかったので、捕球の瞬間は実感がなかった。着地してはじめて“捕球したのか”とわかったんですよね」(河埜和正)
 河埜はどうして“垂直とび80センチ”もできたのか。愛媛県八代中学時代、バレーボール部員だったからだ。中学三年生で身長1メートル76、“垂直とび80センチ”だったから、愛媛県でも鳴らしたアタッカーである。
 それが、なぜ八幡浜工高に進学すると、硬式野球部に転向したのか。男のたどる運命なんて、つくづくわからないものだと思う。
 河埜の実家のある愛媛県八幡浜市古町の隣に、八幡浜工硬式野球部・酒本脩二郎野球部長(現在は大洲市・大洲農業高校野球部監督)の家があった。当然、酒本野球部長が河埜を見逃さない。
「酒本先生に誘われたというか、口説かれたというか、肩が強かったので二年生までは捕手なんです。三年生になって遊撃手に転向したんですよ」(河埜和正)
 人間と人間の結びつきというか、出会いほど不思議なものはない。もし河埜が酒本野球部長の隣に住んでいなければ、そのままバレーボールをつづけたと思う。そうなれば河埜の運命も、巨人軍球団史もまた、ずい分と変わったものになっていたはずだ。
 だが、もう一人、河埜を語るとき忘れてはならない人物がいる。昭和45年、河埜がドラフト6位で入団したとき、二軍守備コーチだった須藤豊である。
 須藤はバレーボールで鍛え抜かれた、すばらしい筋力とバネをどうしたら遊撃手と結びつけることができるか、そればかりを考えた。そして1年間、考えに考え抜いたあげく、46年3月、そのアイデアを多摩川のグラウンドキーパー、務台三郎に打ち明けた。
「とにかく河埜はバレーボールやってましたから、“垂直とび80センチ”をやるんです。肩も鉄砲肩なんですよ。そこで河埜に“おれはプロ野球NO・1の強肩遊撃手なんだ”という意識を持たせることから出発しようと思いましてね。河埜の意識革命を狙って務台さんに相談したんです」(須藤豊)
 そのアイデアとはこうだ。河埜はプロ球界強肩NO・1遊撃手なのだから、守備位置をいまより3メートルほど後退させたい。しかし、ただ「3メートル後退してみろ」では、意識革命の効果がうすい。
 そこで内、外野の切れ目になっている境界線の芝生を3メートルほど刈り込み、河埜を土と芝生との接点に立たす。そうすると河埜の意識の中に「深い守備位置だなあ」という実感が芽をふく。それが自信と実利にもつながるという、須藤アイデアなのだ。
「芝生を3メートル刈り込むというても、遊撃手の後方だけ刈り込むんじゃないんです。一塁方向もバランスよく刈り込むんです。務台さんが一日で作業を完了してくれましたので、河埜も深い守備位置で練習できたんです」(須藤豊)
 さてこの須藤方式、実戦にどう結びついたのか。
 昭和49年7月27日、川崎球場で大洋対巨人13回戦が行われた。大洋は二回裏二死後、三塁走者に江尻亮右翼手、一塁走者に松原誠一塁手をおき、四番・シピン二塁手はカウント1─1後の3球目、高めのカーブを叩いた。どんな打球が左中間方向に飛んだのか。試合のあと、福田昌久コーチ(当時巨人)はこういってうなった。
「最初、地面をなめるように伸びたが、そのままぐーんと本塁打になるのかと思った」
 その打球が途中ですっと消えた。三塁寄りに三歩ほど走ったあと、河埜が“垂直とび80センチ”、グラブの最先端のアミに引っかけて捕球したからだ。もし河埜が他球団の遊撃手と同じ守備位置にいたら、ジャンプしても頭上1メートルを抜かれる三塁打になっていたと思う。
 六回裏一死後、米田慶三郎遊撃手が三遊間へゴロを打った。河埜は三遊間最深部で逆シングルで捕球すると、鋭い腰のひねり、強肩でアウトにした。須藤のアイデア、務台キーパーの技術、河埜の強肩——この三つが一瞬にとけ合い、一瞬に実ったアウトである。
 この試合から4カ月後、大リーグのメッツが日本にやってきた。当時のヨギ・ベラ監督は「年俸は二倍に、ボーナス5万ドル出すからメッツにこないか」と河埜を口説きつづけたが、その舞台裏の苦労は知るよしもない。
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