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運命を変えた一球39

时间: 2019-05-09    进入日语论坛
核心提示:藤田平 先輩の温情が大器を生む 新人が失敗をして、先輩に迷惑をかけたら、新人は死ぬような思いをするだろう。その胸の内を藤
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藤田平 先輩の温情が大器を生む
 
 新人が失敗をして、先輩に迷惑をかけたら、新人は死ぬような思いをするだろう。その胸の内を藤田平一塁手(当時遊撃手。市和歌山商、阪神)は、淡々と語ってくれるのである。
 昭和41年4月29日、ナゴヤ球場(当時中日球場)で、中日対阪神4回戦が行われた。新人藤田は二番・遊撃手として先発メンバーである。
 さて、試合は小川健太郎投手(中日)と村山実投手(阪神)の投げ合いで始まった。細かな得点経過は省略するが、六回表阪神の攻撃が終わった時点で、スコアは2対0、阪神がリードしている。
「きょうは勝てる——」
 阪神ナインがそう思い込みはじめたとき、運命の六回裏を迎えた。中日は六回二死後、一塁走者の中利夫中堅手が、打者権藤博遊撃手(投手から転向。現評論家)の2球目に二盗。権藤もまた四球で歩き一、二塁とした。
 打席に三番・高木守道二塁手(現コーチ)が入った。高木はカウント2─3後の6球目、やや三遊間寄りの遊ゴロをころがした。打球を追いながら、とっさに藤田はなにを考えていたのか。
「高木さんは二死後、カウント2─3のフルカウントから打っているんです。だから二人の走者は自動的にスタートを切っていますよ。しかも打球は三遊間寄りですから、とても二封は無理なんですね。そこで、とっさの間に二塁走者の中さんを三封しようと思って、三塁手の朝井茂治さんに送球のゼスチャーをしかけたんです。ところが中さんは足が速いうえ、スタートを切っている。とても間に合わない。そこであわてて一塁送球したら、こっちもセーフで二死満塁ですよ」(藤田平)
 藤田の一瞬の判断ミスで、阪神は二死満塁とされた。新人藤田は公式戦5試合目である。
「おれのために二死満塁か」
 そう思っただけで、毛穴という毛穴から、冷たい脂汗がふき出るのだ。
 だが、藤田をめぐる話はこれで終わっていない。終わっていないどころか、実はここから始まるのである。
 中日は二死満塁の場面で四番・江藤慎一一塁手が打席にのそりと入った。そしてカウント1─1後の3球目、江藤は村山のフォークボールを左翼席へ満塁本塁打して逆転した。
 藤田は自分の目の前を高木守、江藤が順番に走って行くのを見ながら、これがプロフェッショナルというものかと思った。こちらが毛で突いたほどのスキを見せたら、そこに洪水のように押し寄せるのがプロフェッショナルだとも思った。
 そればかりではない。五番・スチブンス左翼手のとき、ダグアウトから杉下茂監督が出てきて村山を若生智男投手に交代させた。
 六回表までは2対0で、阪神がリードしていたのである。先発村山は中日を無得点に抑えていた。それを自分が判断ミスしたため、先輩村山さんは満塁本塁打を打たれ、交代される——。そう思うと藤田は針のムシロである。
 しかも藤田自身、七回には代打・和田徹に代えられた。もちろん、試合は5対2で阪神が負けた。負け投手は村山だが、“敗因”は藤田がつくったと考えていい。公式戦5試合目の新人が、大黒柱村山の足を引っぱったのだ。そのつらい気持ちは、私には刺すようにわかる。
 阪神の名古屋遠征の宿舎、名古屋市中区南桑名町の旅館「みその」に帰ってきた藤田は、いても立ってもいられない。できたら荷物をまとめて郷里の和歌山へ帰りたい気持ちである。
「晩飯も食えないで、自分の部屋にじっとしていると、村山さんがすっと入ってきましてねえ。私に声をかけてくれるんです。“おい藤田、映画に行こうか”——。あの頃、深夜映画というのがありましたから。題名は忘れちゃいましたけれど、村山さんと並んで洋画見ましたよ。でも、映画見ている間じゅう、隣にいる村山さんの気持ち考えると、申し訳ないやら、熱いものがこみ上げてくるやら。映画のストーリーはよくわかりませんでしたね」(藤田平)
 あのとき、村山にこのバカヤローとどなられていたら、藤田はとっくに忘れていて本書にこの話は登場しなかったと思う。
 男はいつ、どこで、なにがきっかけで本気になるかわからない。藤田の場合、同僚の喧嘩が直接の原因で、故障部の左大腿部の不安がふっきれた。
 話を順を追って伝えてみよう。
 昭和54年4月17日、神宮球場でヤクルト対阪神1回戦が行われた。さて六回表二死後、藤田は水谷新太郎遊撃手の前にゴロを打った。このときである。左大腿部の肉離れを起こしたのは——。
 このケガは意外に長びいた。たとえば同年7月16日、米国ロサンゼルスにある“外科手術専門治療所”に入院した藤田は、ここで筋力強化のリハビリテーションを2週間にわたって受けている。その年が終わってみたら、藤田の成績の記録は「試合数18、打数40、安打11、打率2割7分5厘、得点1、打点3、本塁打0」しか残っていない。
 ところで翌55年、奇妙な“藤田流・カネのワラジ治療法”が始まった。鉄でつくった重さ5キロのゲタをはいて歩く。ただし故障の左足にだけで右足は桐ゲタかスニーカーである。
「ひとつ年上の姉さん女房は、カネのワラジをはいても探せ」という。幸子夫人はひとつ年上である。だが、シャレで重さ5キロの鉄ゲタをはいたのではない。筋力強化のためにはいたのだ。
 しかし、私たちにも体験がある。ぎっくり腰体験者は、社内野球のとき、打席に立っても頭のどこかに「もしまた、ぎっくり腰になったら——」という不安が残り、夢中でバットを振れない。藤田もそれと同じで、内野ゴロを打っても、おっかなびっくり走っていた。
 それがある事件をさかいに、ふっきれた。それがこれから書く試合である。
 昭和55年9月15日、甲子園球場で阪神対ヤクルト20回戦が行われた。阪神は二回裏、一塁走者ボウクレア中堅手がスタートした。ボウクレアが二塁ベースにとび込んでくるコースに、大矢明彦捕手の送球が重なってきた。二塁ベースに入ったのは水谷遊撃手である。こうなれば物理的にボウクレアと水谷は激突する。
 人間、激突すればだれでもカッとくる。まして相手は外人で英語でわめかれたら、よけい頭に血がのぼる。
 こうしてボウクレアと水谷の小ぜり合いが始まった。同僚が小ぜり合いを始めたら、両チームのナインも、この野郎、やるかという気分になる。ボウクレアと水谷が小ぜり合いを始めた瞬間、一、三塁ダグアウトから、どっと全員が“現場”へ走った。
 ところが、なんと一塁側阪神ダグアウトから真っ先にとび出し、集団のトップを切って“現場”へ走ったのは、カネのワラジをはいているはずの藤田だった。
 阪神にも加藤博一中堅手(現大洋)、北村照文右翼手と足の速い男はいる。それよりなにより、藤田より足の遅い男はいない。それなのに藤田が集団のトップで現場へ到着した。
「一緒に野球やっている仲間が、もみ合っているのに、ダグアウトに座ってられませんからねえ。それが男というものでしょう」(藤田平)
 つまり藤田はこの瞬間、左大腿部肉離れも、なにもかも忘れ、全力で走りに走ったのである。
 乱闘事件は起きなかった。主審・竹元勝雄、二塁塁審・谷博などが走り回って、なだめ、すかし、とめたからだ。でも、藤田は騒動がおさまって、ふと気がついたそうだ。
「おれの足は完全に治ったんだ」
 それはそうだろう、チームNO・1の鈍足が左大腿部の肉離れというのに、集団のトップを走ってなんでもないのだから。
 この自信が翌56年、打率3割5分8厘の首位打者につながった。だが、私はここで人間のめぐり合わせの不思議さにおどろくのである。藤田が最初、左大腿部の肉離れを起こしたのも水谷への遊ゴロ、そして自信を持ったのもまたボウクレアと水谷をめぐるトラブルであった。
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