水上善雄遊撃手(桐蔭学園、ロッテ)に本書の狙いどころを説明した。すると私が腰を抜かすような、返事がはね返ってきた。
「私の運命を変えたのは、あの原辰徳(巨人)なんですよね」
なぜ、原が水上の運命を変えたのか。ひとりはロッテの遊撃手、ひとりは巨人の三塁手、全く関係のなさそうな二人なのに、運命の糸ではつながっていたのである。
さて、水上は横須賀市|不入斗《いりやまず》にある不入斗中学時代、投手であった。桐蔭学園に進学してからは投手兼遊撃手になった。それが桐蔭学園を卒業する時点では、すっぱりと投手をあきらめ、遊撃手専門になろうと思った。実はそこの接点に原辰徳が立っているのだ。
ここで話は昭和50年7月、第57回全国高校野球選手権大会神奈川大会に移る。水上のいる桐蔭学園は1回戦抽選勝ち、2回戦で湘南高を5対1、3回戦で柏陽高を11対1、4回戦で三浦高を7対0で破り、準々決勝に上がってきた。
水上が3年生の夏である。
ところで、このとき2年生原のいる東海大相模高も1回戦で抽選勝ち、2回戦で麻溝台高を10対5、3回戦で横浜高を5対1、4回戦で大和高を8対0で破り、準々決勝にすすんできた。
当時の主力メンバーはこうだ。一番・佐藤功中堅手、二番・森正敏二塁手、三番・原辰徳三塁手、四番・津末英明右翼手、五番・佐藤勉一塁手、六番・綱島里志左翼手、七番・崎山三男捕手、八番・村中秀人投手、九番・朝倉秀俊遊撃手。
この桐蔭高と東海大相模高の準々決勝が7月24日、横浜・保土ヶ谷球場で行われた。
桐蔭高・奇本芳夫監督はエース格の中山博投手を先発させ、二番手投手の水上は遊撃手においた。東海大相模高・原貢監督はエース村中を先発させた。
試合は呼吸もできないほど、せっぱつまったものになった。東海大相模高が1点とると、桐蔭高も取り返す。
「私は三番を打っていたんですが、4打数4安打で当たりに当たっていたんです」(水上善雄)
しかし七回終了時点でスコアは5対4、東海大相模高が1点リードしている。八回表に移るとき、奇本監督が水上をよんだ。
「1点差じゃ逆転できる。問題はこれ以上とられないことだ。お前、リリーフで投げてくれ」
こうして水上はマウンドにのぼった。そして水上の運命を変えるシーンが九回に起きるのである。東海大相模高は無死、二番森が左翼線二塁打した。ここで打順は原に回ってきた。
「この場面ではヒットでもホームランでも打たれたら負けですから、変化球でいこうと初球、カーブでストライクを取ったんです。それから2球目、外角へ外すカーブを思い切り引っかけられましてね。左翼2点ホームランですわ。九回表で7対4ですからね。勝負あったですよ。原君がダイヤモンドを走るの見ながら、“おれは、投手はもうやめた。遊撃専門でいこう”と考えてました。だから、私を遊撃手にしたのは原君なんです」(水上善雄)
水上はこのあと四番津末を右飛にとったが、五番・佐藤勉にまた初球、ストレートを左翼本塁打され、8対4で負けた。東海大相模高は準決勝で日大高を7対4、決勝戦で日大藤沢高を6対0で破り、甲子園へ出場した。
「去年、あるテレビ番組で原君と一緒になったとき、あの準々決勝の話がでましてね。“あのカーブはボールだった”と彼はいってましたよ」(水上善雄)
でも私は思うのだ。あの準々決勝のとき、水上が原に本塁打を打たれないで、桐蔭高が逆転勝ちでもしていたら、水上はおそらく投手への道を歩いていたと思う。そうしたらパ・リーグの代表的遊撃手としての、いまの水上はなかった話になる。
水上の人生を長い視野でとらえたとき、あの場面で原に打たれた本塁打こそ、彼の投手生活の中でたった1本の、幸せの“被本塁打”ではなかったのか……。
「私はすんでしまったことは、どんどん忘れてしまう男なんです。だから感動的なプレーや、悔し涙の試合なんか思い出せないなあ」
だが、そういう水上でも本当は体をぶるぶるふるわせる試合があった。その夜、濃いコーヒーを飲みすぎたような思いで、眠れない夜があった。昭和56年のプレーオフがそれである。
昭和56年10月10日、川崎球場でプレーオフ、ロッテ対日本ハム第2戦が行われた。プレーオフは5戦のうち、3勝したチームが優勝、日本シリーズ出場権をつかむ。
第1戦は柏原純一三塁手の本塁打が出て、1対0で日本ハムが勝っている。だからロッテとしては、第2戦で1勝1敗のタイにしておきたい。
さて第2戦の細かな得点経過は省略するが、八回裏、ロッテの攻撃が終わった時点で、スコアは5対3、ロッテがリードしている。
「ロッテが勝った——」
ほとんどの者がそう思った。ところが、日本ハムは九回表無死、三番・指名打者ソレイタが中前安打した(代走・五十嵐信一)。そして四番柏原の2─2後の5球目、五十嵐はスタート、柏原は水上の前にゴロを打った。まともなら当然、併殺コースである。しかし五十嵐のスタートがよく、打球にスピードがなく、ここのところに水上の感覚のズレが生まれた。ゴロを捕球した水上は井上洋一二塁手に送球したが、一瞬、五十嵐の足が速かった。記録は水上の野選である。これで無死一、二塁だ。日本ハムはこのあと五番・服部敏和右翼手の代打・村井英司の左前安打で1点。六番・古屋英夫三塁手が送り、七番・井上弘昭左翼手の左前安打で5対5の同点とした。
一塁側ダグアウトへもどってきた水上は、声を出して泣きたい気持ちだった。なぜ五十嵐のスタート、脚力、それに打球のスピードを一瞬のうちに計算できなかったのか。“野選”などという記録は、遊撃手にとって間抜けといわれているのと同じではないか。
しかも水上にとって、なんともやり切れない思いは、これだけではない。九回裏一死後、二塁走者に有藤道世三塁手、一塁走者に代走・芦岡俊明をおく場面で、打順は九番水上に回ってきた。男なら体中の毛穴が総毛立つほど、やってやるという思いがこみ上げてくる場面である。すると山内一弘監督が、主審・村田康一に伝達した。
「水上の代打・江島巧——」
江島は江夏豊投手のストレートにおされて左飛。一番・庄司智久左翼手も左飛。試合は5対5の引き分けに終わった。
この夜ばかりは水上も寝つかれない。野選もそうだが、九回の代打も納得がいかない。なぜなら、この試合における彼は、第1打席が左前安打、第2打席が中飛、第3、第4打席はともに左前安打、4打数3安打なのだ。それでも代打なのか。午前2時すぎ水上は自分で自分に、こういってきかせた。
「試合でこの無念さを晴らす以外にない。すべては試合なんだ」
さて話は日本ハムの2勝1分けのまま迎えた12日の後楽園球場での第4戦に移る。これに勝てば日本ハムは優勝である。
スコアは四回終了時点で6対5、日本ハムがリードしている。水上をめぐる、体のふるえるような話は五回表に起きた。ロッテは五回無死、落合博満二塁手が3点本塁打して8対6と逆転した。だが、村田兆治はもう四回まで失点6を記録している。2点のリードではなんともあぶない。
二死後、二塁走者・リー右翼手、一塁走者・土肥健二捕手をおき、水上はカウント1─2後の4球目、宇田東植投手(現阪神)から左翼席本塁打、11対6と5点差にひらいた。
「ぎりぎりのどたん場で、はね返したという思いで、ダイヤモンドを回るときは初めて体がふるえましたねえ」(水上善雄)
翌13日、第5戦が行われた。8対4でロッテは負けた。だが、水上は5試合を通じて打数13、安打6、打率4割6分2厘でプレーオフ首位打者になった。