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運命を変えた一球44

时间: 2019-05-09    进入日语论坛
核心提示:真弓明信 やさしさは説教より恐ろしい 私が真弓明信遊撃手(柳川商、阪神)に、本書の狙いどころを説明すると、これから書く話
(单词翻译:双击或拖选)
真弓明信 やさしさは説教より恐ろしい
 
 私が真弓明信遊撃手(柳川商、阪神)に、本書の狙いどころを説明すると、これから書く話がポンとはね返ってきた。真弓にとっては、つらくて悲しい話である。
 そこで私が真弓にいった。
「いくら新人時代の話とはいえ、やり切れない話ですね」
 すると真弓は、こういう返事をした。
「プロ野球選手なんて、楽しいこと、嬉しいことなんか、めったにありませんよ」
 私が真弓を取材したのは後楽園球場から歩いて3分ほどの阪神の宿舎「サテライトホテル」のロビーである。真弓はこのインタビューのあとミーティングを行い、神宮球場での対ヤクルト戦に出かけて行くため、もうユニホームを着ている。しかし私は真弓のこのセリフを聞いたとき、彼が一瞬、背広を着ているのではないかと思った。
 サラリーマンだって、つらいこと、悲しいことの毎日である。楽しく、嬉しいできごとなんか忘れてしまったような毎日だ。それと同じセリフを真弓が吐く。プロ野球選手はわれらサラリーマンと全く同じ人間がやっているのだと思う。
 昭和48年5月15日、西宮球場で阪急対太平洋ク(現西武)3回戦が行われた。さて3対3の同点で迎えた九回表一死後、太平洋は二番・日野茂三塁手の代打・阿部良男が登場、二飛に終わった。そこで九回裏の守備では梅田邦三遊撃手が三塁に回り、遊撃には新人真弓が入った。
 ただし真弓はこれがデビューではない。5月5日、平和台球場での太平洋対日拓(現日本ハム)6回戦の九回表だけ守備に出場、これがプロ入り初出場である。このデビュー試合ではゴロを1個もさばいていない。
 話題を出場2試合目にもどそう。3対3のまま延長十回裏、阪急の攻撃に移った。三番・加藤英司一塁手(現近鉄)が中飛。一死後、四番・長池徳二右翼手が芝池博明投手のシュートにつまり、ゆるい遊ゴロを打った。そのゴロを見た瞬間、真弓はわけがわからなくなってしまった。結婚披露宴でいきなりテーブルスピーチの指名を受けたと思えばいい。気がついたら前にはじいていた。
 一塁に代走の当銀秀崇をおき、五番・大熊忠義左翼手も芝池のシュートにつまり、また遊ゴロをころがした。プロ入り初めてのゴロを失策した真弓は、なにがなんだかわからない。このゴロも前に落としてしまった。要するに連続エラーである。
 阪急はこのあと七番・種茂雅之捕手が左前安打してサヨナラ勝ちした。太平洋にしてみれば百%、サヨナラ負けの原因は真弓が作ったようなものである。
 宿舎「椿荘」に帰ったあと真弓はどうしたのか。この時点でプロ5年生の芝池の部屋を一人で訪れた。これは余談だが、この芝池は専大時代の昭和40年6月20日、神宮球場で行われた第14回全日本大学野球選手権大会の準決勝、専大対東海大戦で学生野球史上、6人目の完全試合(投球数115)をやっている。
「芝池さんが負け投手ですからね。タタミの上に正座して“申しわけありませんでした”と頭を下げました。“このヘタクソ野郎ー”って、どなられるかと思ったら、芝池さん、ニコッと振り返って“気にするなよ、真弓”——これで終わりなんですよ。それだけにつらかったですねえ」(真弓明信)
 稲尾和久監督から呼び出しを食い説教されるだろうと、真弓は深夜までじっと待っていた。ところが、なんの呼び出しもない。それどころか翌日の朝食のとき稲尾監督から「おい真弓、元気を出せよ」といわれ、ホッとした。
 ところが、それから2カ月、3カ月たつうち真弓は初めて知った。「やさしさは説教より実は恐ろしいんだ」ということを——。
 説教しないで元気出せよといってくれた稲尾監督が、以後そのシーズン、二度と真弓を試合に使わないのだ。だから真弓の新人時代の記録は「試合数2、打数0」しか残っていない。
 真弓は、いつごろ、なにが直接のきっかけでプロ野球選手になろうと思ったのか。
 昭和40年8月24日の昼すぎ、大牟田市で三池工の優勝パレードが行われた。三池工は同年8月13日から甲子園球場で行われた第47回全国高校野球選手権大会に優勝した。1回戦は高松商を2対1、2回戦は東海大一を11対1、3回戦は報徳学園を3対2、準決勝は秋田を4対3、決勝戦は銚子商を2対0で破り、47回におよぶ高校野球史上、“工業高校第1号優勝校”となった。
 三池工ナインの大牟田市中優勝パレードが行われたとき、真弓は大牟田市内にある手鎌小学校5年生だった。
「当時、三池工野球部監督は原辰徳三塁手(巨人)のお父さんの原貢さん(のち東海大相模高監督)でした。先頭のオープンカーに貢さんとエースの上田卓三投手(のち南海)が乗ってましてね。あまりのカッコよさにしびれました。おれも高校野球をやろう。それからプロ野球だと思った一番最初は、このオープンカーの市中パレードでしたねえ」(真弓明信)
 風船玉がふくらんで、ゆらゆらとあかね空に舞い上がって行くような、小学校5年生の思い出である。真弓はその夢がかない、いま阪神のスター選手になった。それなのに、彼は私にこういった。
「プロ野球選手なんて、楽しいことはひとつもありませんよ。つらいこと、悲しい話ばかりですよ」
 なぜなのか——。
 昭和55年9月12日、後楽園球場で巨人対阪神24回戦が行われた。先発は江川卓投手(巨人)と山本和行投手(阪神)である。
 この日、山本は無類のすべり出しを見せた。一回裏、一番・松本匡史中堅手と三番・ホワイト左翼手を三振にとったのをはじめ、なんと三回終了時点までに10人の打者と顔を合わせ、8三振である。しかも投げるだけではない。山本は五回二死後、一塁走者のボウクレア中堅手をおき、左越え二塁打をとばし、打点1を記録した。
「山本は1対0で巨人をシャットアウトするのじゃないか」
 当日、後楽園球場にやってきた4万8000人の観客と、テレビを見ていた数多くのファンはそう思い始めた。しかし野球はドラマをこえている。意外な人物の、意外なプレーから山本ワンマンショーは崩れていく。
 巨人は七回無死、ホワイトが遊ゴロを打った。真弓が軽くさばいて一塁送球したが、ワンバウンドで藤田平一塁手が捕球できない。記録は真弓の失策である。四番・王貞治一塁手の投ゴロで、一塁走者のホワイトは二封された。しかし王は一塁走者として残った。
 巨人はこのあと五番・シピン二塁手が中前安打して一、二塁。さらに六番・中畑清三塁手が右前安打して1対1の同点とした。
 なにがつらい、なにが悲しいといって、自分の失策で生きた走者がホームインするくらい、やり切れない話はない。ホワイトは二封されたが、投ゴロの王が一塁走者として残り、あげくの果てにホームインしたのだから、真弓の胸はつぶれる思いである。
 さて1対1の同点のまま九回裏、巨人の攻撃に移った。四番王が右飛のあと、五番シピンに打順が回ってきた。カウント1─2後の4球目、山本はフォークボールを投げた。それが高めに入った。シピンはそれを左翼席にサヨナラ本塁打した。気がついてみたら「投球回数8回1/3、投球数103球、被安打5、奪三振10、与四球1」の山本が負け投手になっていた。
 私が真弓に向かって「あなたがヒーローになった試合も話してほしい」とたのんだが、返事は自分の失策で負けた、つらい話ばかりだった。プロ野球選手にとって、いつまでも忘れられない試合とは、勝った試合よりも、自分の失策で負けた思い出のようだ。
「苦労やつらい思い出は、やがて楽しい思い出にすり替わっていく」といわれるが、真弓のこの思い出は歳月とともに楽しいものに変わっていくのだろうか。
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