簑田浩二右翼手(大竹高、阪急)は取材の途中、こんな話をしだすのである。
「右翼手として一番恥ずかしいプレーは、なんだと思いますか。落球もありますよ。トンネルもありますよ。突っ込みすぎて打球を後逸する場合もある。しかし一番恥ずかしいのは、クッションボールをとりそこなって長打にしてしまうプレーなんです。あれは判断のミス、反射神経のミス、全部が重複しますからねえ。クッションボールを誤って、打球の後追いするぐらい、みじめな気持ちはありませんね。自分で自分が本当にいやになる瞬間ですよ」
人間の運命なんてつらいものだ。右翼手が一番やってはいけないプレーを、簑田はやってしまったのだ。それもただの試合ではない。球団が運命を賭けた、プレーオフ第5戦にである。
昭和52年10月9日、西宮球場で阪急対ロッテのプレーオフ第1戦が行われ、18対1で阪急が勝った。第2戦は3対0でロッテの勝ち、第3戦は3対1でロッテの連勝。これでロッテの2勝1敗である。
だが、第4戦は4対2で阪急が勝って2勝2敗。運命の第5戦は10月15日、仙台・宮城球場で行われた。先発は三井雅晴投手(ロッテ)と足立光宏投手(阪急)である。
この時点の簑田はプロ2年生。右翼のレギュラーはウィリアムスだった。たとえば簑田の52年度における公式記録は「試合数86、打数74、安打20、打率2割7分0厘、盗塁7、本塁打1」しかない。
その簑田がなぜ、運命を賭ける第5戦に七番打者・右翼手として先発したのか。理由は簡単である。ウィリアムス右翼手が右大腿部を痛めていたからだ。
さて一回裏一死後、ロッテは二番・飯佳寛遊撃手が左打席に入った。カウント2─2後の5球目、飯は内角ぎりぎりのストレートを引っぱった。打球はゴロになり、一塁線と加藤英司一塁手(現近鉄)の間を抜けた。それからファウルグラウンドをころがり、フェンスに当たった。
「宮城球場の右翼は何度も守ってますからね。打球のスピード、フェンスに当たる位置など計算しながら走り、クッションボールにそなえたんです。その計算が外れて、打球は私の方にはね返らず、外野フェンスにそってどんどんころがって行くんです。私はその後追いですよ。実際は4秒か5秒の後追いなんでしょうけれど、何十秒という実感だったなあ。あれから5年たってますが、いまでも夢に見ますよ」(簑田浩二)
飯は足に自信がある。簑田が背番号「24」(現在は1番)を本塁方向に見せながら後追いするのを見て走りに走った。一塁から二塁へ、二塁から三塁へ、そして2万人の観客があっと気がついたとき、飯は本塁へ突っ走った。
簑田も死にもの狂いである。やっとボールをつかむとマルカーノ二塁手へ送球。マルカーノも中沢伸二捕手へ好送球した。飯もまたヘッドスライディングしたが、主審・岡田豊は「アウト」を宣告した。
阪急は九回表、5安打を集中して大量4点を入れ、7対0で勝ち、プレーオフに優勝した。
ところが、優勝にわきかえる三塁側ダグアウトの中で、プロ2年生簑田はプロ19年生足立の前へおずおずと出て行った。
「足立さん、一回はすみませんでした」
すると足立はこういう返事をしたそうだ。
「お前のプレーを見て思ったよ。決勝戦だから、みんな硬くなっているのかなあ。そうだとしたら、おれが落ち着かなければ勝てないと考えたよ。おれがシャットアウト勝ちできたのも、お前のおかげだよ」
野球は技術者がやっているのではない。人間がやっているというのは、ここらあたりなのである。
「あのチョンボも忘れられないけれど、あの足立さんの言葉も忘れられないなあ。チョンボされてもどなるだけが芸じゃないんですよ」(簑田浩二)
さて、簑田はこの日から11日後の日本シリーズ第4戦で、5万人の観客が腰を抜かすような走塁をやってのけ、レギュラーの座をつかむ。
簑田は日本シリーズの流れを変えるような、ものすごいプレーをやってのけた。上田利治監督は簑田の顔にキスするほど抱きしめ、そのプレーをほめ上げたろうか。とんでもない。その晩、上田監督は簑田を正座させ、じゅんじゅんと説教するのである。だから当時の阪急は“日本一”であった。
昭和52年10月26日、後楽園球場で巨人対阪急の日本シリーズ第4戦が行われた。第1戦は7対2、第2戦は3対0で阪急が連勝、第3戦は5対2で巨人が勝ち、阪急の2勝1敗で迎えた第4戦である。
もし、この第4戦に阪急が勝てば、阪急の3勝1敗となり、優勝は80%以上決まったと考えていい。逆に巨人が勝てば2勝2敗となり、立場は五分となる。第4戦こそ日本シリーズの流れを決めるポイントだった。
先発は堀内恒夫投手(巨人)と稲葉光雄投手(阪急)で始まった。細かな得点経過は省略するが、八回裏巨人の攻撃が終わった時点でスコアは2対1、巨人がリードしていた。
さて九回表、阪急の攻撃が始まった。四番・島谷金二三塁手が二ゴロ、五番・マルカーノ二塁手が投ゴロ、二死となった。
「これで決まった。第4戦は巨人が勝った」——だれもがそう思った。すると二死後、六番・ウィリアムス右翼手の代打・藤井栄治が左打席に入り、粘りに粘って浅野啓司投手から四球で歩いた。上田監督は藤井の代走簑田を送り出し、さらに七番・中沢伸二捕手の代打・高井保弘を指名した。代走簑田、代打高井が登場した瞬間から、舞台は変転に変転を重ねていくのである。
簑田は高井の2球目に二盗した。吉田孝司捕手が死にもの狂いの二塁送球をしたが、簑田のスライディングした足が一瞬、早かった。静かに水があふれていくように、観客4万2433人の胸は締めつけられた。高井に安打が出れば同点だからだ。
カウント2─2後の5球目、浅野は内角高めのストレートを投げた。それを高井は痛打した。打球はライナーでとび、ワンバウンドで二宮至左翼手が捕球した。
打球のスピード、ワンバウンドで二宮が捕球している状況を考えると、簑田の本塁突入は無理かと思われた。
「でも、最初から突っ込むつもりでスタートしましたね。三塁コーチャーの石井晶さん(現ヤクルト)も、走れの指示でしたしね」(簑田浩二)
しかし現実問題としては、二宮が捕球するのと簑田が三塁ベースに接触するのと、どちらが先かほとんどわからない状態だった。それでも簑田は風のように、走りに走った。
二宮─高田繁三塁手の本塁送球は70センチほど、一塁ベース寄りにそれた。簑田は下半身を三塁側ダグアウト寄りに倒し、回り込むように左手でホームプレートをなぜた。上から押さえ込むようにタッチする吉田と、ホームプレートを左手ではくようにタッチする簑田。主審・岡田哲男は「セーフ」の判定である。阪急は2対2の同点にしたあと、八番・大橋穣遊撃手の中前安打、九番・山田久志投手の右中間二塁打などで5対2と逆転、対戦成績を3勝1敗とした。そして第5戦も6対3で勝って、阪急は優勝した。
代打高井の左前安打も見事だが、その前に二盗をやってのけ、さらに二宮の本塁送球をくぐるようにホームインした簑田の足こそ、この試合の“最高殊勲選手”といっていい。
「ところがその晩、上田監督の部屋によばれて説教されましてね。監督のいい分はこうなんです。高井は2ストライク後のストライクゾーンにきたストレートを打っているんだ。だから、二塁走者のお前は問題の5球目が、ストライクゾーンへすーっと入って行くのを見たら、ミートする以前にスタートを切っていなければだめだというんです。そういえば、あのとき私は高井さんが打ったあとスタートしてましたから」(簑田浩二)
簑田は第4戦の実質的な“最高殊勲選手”になっていながら、上田監督に説教された。だが、このために彼は知ったのである。野球の奥行きの深さと、レギュラーになる道のはるかなることを——。