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芭蕉 その人生と芸術02

时间: 2019-05-21    进入日语论坛
核心提示:〈1〉伊賀の上野その故郷・伊賀上野 東京を夜行列車で立つと、朝方、国鉄関西線の「伊賀上野」の駅に着く。汽車が駅を出ると間
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〈1〉伊賀の上野
 
 
その故郷・伊賀上野
 東京を夜行列車で立つと、朝方、国鉄関西線の「伊賀上野」の駅に着く。汽車が駅を出ると間もなく、左手の丘陵の上に上野城の天守閣が遠く見える。天守閣は再建されたものだが、城址は今でも残っている。城址の石垣は、慶長十六年(一六一一)ごろ、藤堂高虎が築造したものである。
 藤堂高虎は、これより先、伊予国(今の愛媛県)今治にいて二十二万石を領していたが、慶長十三年(一六〇八)八月、伊賀・伊勢に移り、二十二万石を領した。その後、慶長十九年、二十(元和元)年の大坂城攻略には徳川方に属して奮戦し、世が徳川方に移るや、伊賀一国十万石余の外、伊勢の安濃・一志を中心に十七万石、山城大和に五万石、別に下総《しもうさ》に三千石、合わせて三十二万石余を領する国持ち大名の雄藩となった。津と上野にはそれぞれ城代家老が置かれ、伊勢と伊賀の領地を治めた。上野の城代家老は、始めは藤堂出雲守高清であったが、寛永十七年(一六四〇)からは藤堂|采女《うねめ》家が代々その職に着くこととなった(『上野市史』)。
 その上野が芭蕉の郷里である。
 上野の町のことをもう少し書いて置こう。
 上野は伊賀の国全体からいうと、北寄りに位置している、伊賀盆地(今は上野盆地という)の中心の城下町であった。
 伊賀の国は全体として山地である。従って地味|肥沃《ひよく》とはいえない。伊賀一国で十万石であるから、農耕に恵まれた土地ではない。山に囲まれた地方で、中央に対し、いわば僻地《へきち》であるから、交通の要衝というわけでもなく、また農業に代わる他の産業の著しいものもない。伊賀は、どちらかといえば、恵まれない土地である。
 気候の上からいっても、内陸性盆地特有の寒暖の差が大きい。『上野市史』によれば、過去における上野市の最高気温は三八・八度であり、最低気温は零下九・三度であるという。三重県下の他の測候所のどれよりも最高であり、最低である。海岸地帯に比して、きびしい気候であるといわねばならない。また、県下でも最も雨の少ない土地である。
 伊賀一国の人口は、万治三年(一六六〇)の調査では、七万五千八百五十人で、それから六十七年後の享保十二年(一七二七)には、八万九千四百七十五人、家数で一万九千百四十四軒である(『上野市史』)。芭蕉の頃はその中間をとって、約八万人余ぐらいであったか。もっともこの調査には武士の人口は含まれていない。
 伊賀盆地の中心である上野の人口は、享保十二年の調査では、家数二千百七十九軒、人口一万一千百九十五人である(『上野市史』)。芭蕉の頃はこれより少なかったから、一万人ぐらいのものであったろうか。もっとも、この数にも武士は含まれていない。
 
柘植《つげ》で生まれて上野で育ったか
 先に上野を芭蕉の郷里だと記した。しかし、芭蕉が今の上野市で生まれたかどうかには疑問がある。芭蕉の生地は、上野ではなく、上野の東北約十五キロメートルの柘植《つげ》だという説が、古くからある。
 元来芭蕉の父親の松尾|与左衛門《よざえもん》は柘植にいた。松尾氏が柘植に入ったのは戦国時代末期で、それ以後江戸時代を通じて、松尾六家があったという。今日も同地には松尾氏を名乗るものが少なくない。この松尾家の家柄は、無足人級であった。無足人は、いわば一種の郷士で、俸禄は与えられなかったが、士分に準じて扱われ、人足に出ることを免ぜられていたのでその名があるという。一般農民の上に位置していたといってよいであろう。もっともその地位は時代によって変遷があり、また個々の家によっても違っていたと考えるべきである。
 芭蕉の父松尾与左衛門が柘植の出身であることは定説である。しかし、また彼が柘植から上野へ出て住んだことも定説である。そこで、松尾与左衛門が、いつ柘植から城下町の上野へ出て来たかによって、芭蕉の生地が、柘植か、上野かに決まることになる。つまり、芭蕉の生年である正保元年(一六四四)に、父母は柘植にいたか、上野にいたかである。
 ところが、それがわからない。口碑や伝説や傍証を頼りにして、いろいろな説があるが、それも決定的とはいえない。従って芭蕉の生地が、柘植であるか、上野であるかも、決定的には不明である。ただし、私の感想をいえば、芭蕉は柘植で生まれ、幼少の時に父に連れられて上野に出たのではあるまいか、という気がする。
 しかし、柘植で生まれたか、上野で生まれたかは、大して重要な問題ではない。重要なことは、長じて郷関を出た芭蕉が、上野を自分の郷里と考えていることである。芭蕉が、故郷といい、旧里という時、それは上野を指している。芭蕉がふるさととして懐しい感情をもって思い浮かべるのは、上野である。だから、もし、柘植で生まれたとしても、物心つくかつかないうちに、芭蕉は上野に出たものではあるまいか、という気がするのである。人は、どこで生まれたかよりも、どこで少年時代を過ごしたかが、故郷の感情に密接につながるのである。
 後年(貞享四年十二月、芭蕉四十四歳)の文章に、次のような一文がある。
 
  歳 暮
代々《よよ》の賢き人々も、古郷《ふるさと》は忘れがたきものに思ほへ侍るよし。我、今ははじめの老も四とせ過て、何事につけても昔のなつかしきまゝに、はらからのあまたよはひかたぶきて侍るも見捨がたくて、初冬の空のうちしぐるゝ比《ころ》より、雪を重ね、霜を経《へ》て、師走《しはす》の末、伊陽《いやう》の山中に至る。猶《なほ》、父母のいまそかりせばと、慈愛のむかしも悲しく、おもふ事のみあまたありて、
古郷《ふるさと》や臍《へそ》の緒《を》に泣《なく》歳のくれ   芭蕉
 
(『千鳥掛』)
 
 ここで芭蕉が「古郷《ふるさと》」といっているのは、上野である。また、
 
長月の初、古郷に帰りて、北堂の萱草《けんさう》も霜枯|果《はて》て、今は跡だになし。何事も昔に替りて、はらからの鬢《びん》白く、眉皺《まゆしは》寄て、只《たゞ》命有りてとのみ云《いひ》て言葉はなきに、このかみの守袋をほどきて、母の白髪《しらが》おがめよ、浦島の子が玉手箱、汝がまゆもやゝ老たりと、しばらくなきて、
手にとらば消《きえ》んなみだぞあつき秋の霜
 
(『野ざらし紀行』)
 
とある故郷も上野である。上野の赤坂の兄の家でのことである。
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