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芭蕉 その人生と芸術03

时间: 2019-05-21    进入日语论坛
核心提示:〈2〉松尾家とその家族今も上野赤坂町に芭蕉の家 芭蕉の父松尾与左衛門は、柘植から上野へ出て今の赤坂町に住みついたらしい。
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〈2〉松尾家とその家族
 
 
今も上野赤坂町に芭蕉の家
 芭蕉の父松尾与左衛門は、柘植から上野へ出て今の赤坂町に住みついたらしい。赤坂町に今も芭蕉の家の跡が残っている。現在の家が、そのまま芭蕉当時の家であったとは思われないが、建て直されたとしても、何程か昔の面影を残していると考えてよいであろう。明治十八年(一八八五)まで、松尾家の子孫が住んでいたというのだから、古い建築であることは確かである。間口四間半(約八・一メートル)、奥行き二十一間(約三七・八メートル)ばかりの細長い敷地で、土地の面積は約百坪(三三〇平方メートル)ばかりである。
 湯殿の奥の狭い部屋に次男の芭蕉が青年時代を過ごしたということになっている。芭蕉は二十代の頃、自分の部屋を「釣月軒《ちようげつけん》」と称していた。
 赤坂町は当時の上野の市街の東外れにあった。赤坂町の東隣が農人町で、名前の示す通り、農家が多かったものであろう。それから東はもう町ではなかった。
 芭蕉の父がなぜ上野へ出て来たかは明らかでないが、あるいは嗣子《しし》でなかったからかもしれない。無足人級の家は、農村では家柄としては中流以上の家である。その家を嗣いだ上は、そう簡単に上野へ出られるはずもない。出る理由もない。あるいは、次男以下の身の上で、多少の財産を分けて貰って上野へ出た、というようなことはないだろうか。何の証拠もないことであるから、強くいうつもりはないが、そんなことも考えられるというだけである。
 
中流の市民・父与左衛門
 芭蕉の父は、農村の無足人級の家に育った人であるが、上野の松尾家が多くの財産を持って裕福な生活を営んでいたとは思われない。しかし、前述の通りの家を持ち、現在の建築が当時のままではないとしても、次男の芭蕉がともかくも自分の部屋を持ち得る程度であり、父の没後、芭蕉の妹たちが、それぞれ中流程度の町家に嫁しているらしいし、芭蕉の兄も、また芭蕉自身も、下級ながら仕官ができたのであるから、極端に貧しい家であったとは思われない。
 上野の安屋甚右衛門光箴(俳号冬季)の書いた『蕉翁略伝』(天明元年以前成る)に、芭蕉の父は「手跡の師範」をしていた旨の記載があり(同書一本には「商家となる」とある)、竹二坊の『芭蕉翁正伝』にも「上野赤坂町に手跡師範を以家業とす」とある。共に時代の下った書であるから俄かに信ずることはできないが、「手跡の師範」だけで生計を営んでいたとは思われないとしても、多少の農地を小地主として持つかたわら、生計の資の一端として「手跡の師範」をしたことがあったとしても、おかしくはない。
 一方、余り大した財産がなかったことは、家を継いだ芭蕉の兄の半左衛門が、下級武士として俸禄を得ながら、一生乏しい生活をしていたことから推察される。後年宗匠となった芭蕉は、兄のために経済的援助をしていた形跡があるし(去来宛て書簡・半左衛門宛て書簡など)、二十代の芭蕉が、分家もできず、妻帯もできないで、部屋住みの身の上であったことを考えてみても、松尾家が富裕な家でなかったことは明らかである。かれこれ考え合わせると、上野の松尾家は中流ぐらいの市民であったと見て置いてよいであろう。
 
伊予宇和島生まれの母
 芭蕉の母、即ち松尾与左衛門の妻については、封建時代のことであるから資料が乏しく、十分なことはわからない。上野の人で、芭蕉の直接の門人である服部土芳の『蕉翁全伝』に「伊予宇和島産、桃地氏女」とあるのに素直に従うべきであろう。慶長十三年(一六〇八)にこのあたりの領主となった藤堂高虎は、四国の伊予から伊勢・伊賀に転封されたものであるから、転封につれて伊予から移って来た家のあることは不思議でない。芭蕉の母は、その家の一つである桃地氏の出であると考えても差し支えはない。
 これには諸論があるが、芭蕉の故郷である上野の人で、芭蕉より十三歳年少ではあるが、すでに少年の頃から芭蕉を知っていた土芳(芭蕉の『野ざらし紀行』の中に「水口にて二十年を経て故人(土芳)に逢ふ 命二ッの中に生たる桜哉」とあり、その時芭蕉は四十二歳、土芳は二十九歳。以来土芳は芭蕉の忠実な門人として生涯を過ごした)が、全くの出鱈目を書くとも思われない。しばらくこれに従って置く。今日伊予から移って来た桃地家の証跡が、伊賀に伝わらないというが、伊予から移って来たのだから、親戚などが少なく、一代か二代で絶えてしまうこともあり得ることである。わざわざ伊予から移って来たのだから、藤堂藩と何等かの関係があったものであろうが、証跡の残らないところを見るとそれほど高い家柄ではなく、まず中流程度の家と見て置いてよいのではあるまいか。
 芭蕉の母が死んだのは、天和三年(一六八三)六月二十日で、時に芭蕉は四十歳であった。松尾家の菩提寺上野愛染院の過去帳に「梅月妙松信女 天和三年六月二十日 松尾半左衛門母儀」とある。
 
兄半左衛門と四人の姉妹
 芭蕉の兄は、松尾半左衛門命清と称し、芭蕉の死後もなお七年生きて、元禄十四年三月|晦日《つごもり》に没した。享年は未詳だが、一つ違いとか、二つ違いというのではなく、芭蕉より何歳か年長だった。後に記すように芭蕉が十三歳の時、父与左衛門が死んだが、そのあとこの兄が家督を相続し、ともかくも松尾家を経営して行ったのだから、その時十四、五歳だったとは考えにくいし、兄宛ての芭蕉の書簡の書きぶりその他からいっても、父親代わりになった節も見え、数歳は年上だったろうと想像するのである。
 はじめ藤堂内|匠《たくみ》家に仕え、後に藤堂修理長定に仕えたというのが通説で、いずれも下級武士だったと思われる。仕官については積極的な証拠はないが、否定する理由もないので通説に従っておきたい。商業をしていた形跡はないし、弟の芭蕉が藤堂新七郎家に仕えるぐらいの伝手《つて》があったのだから、兄が仕える伝手があっても不思議はない。前掲松尾家の菩提寺愛染院の過去帳に「月峯不残信士 元禄十四年三月晦日 松尾半左衛門事」とある。
 姉が一人いたらしいが、土芳の『全伝』(曰人写)の系図に「早世」とあるのに従っておく。山岸重左衛門(俳号半残)に嫁したとする旧説は、年齢的に半残が芭蕉より十歳も年下なので、その父の重左衛門(俳号陽和)に嫁したのであろうとの説が出ているが(菊山当年男『ばせを』)、確証はない。岡村健三氏のいわれるように、かなり身分の高い山岸家と松尾家との縁組みは、当時として不自然である(『芭蕉伝記考』)。また最近、この姉は「早世」でなく、柘植の竹島家に嫁し、元禄十年まで存命したとする説もあるが、確証はない(村松友次「芭蕉の姉について」)。
 すぐ下の妹は、土芳の『全伝』や竹人の『全伝』で、上野の片野氏に嫁したというのがよいであろう。従来、蕉門の俳人望翠(片野新蔵)をその夫とする説が行われていたが、山本茂貴氏の墓碑調査から、望翠は芭蕉より十三歳の年下であることが解ったので、芭蕉のすぐ下の妹が嫁ぐはずはなく、望翠説は否定された。
 上野市の「芭蕉翁記念館」には「闇の夜をしらます梅の夜明かな 芭蕉肉親 片野甚五郎桃五」の句を含む、上野町連中の懐紙があるが、この片野甚五郎を妹の夫と考える説は、傍証を得れば有力であると思う。この片野甚五郎と考えれば、上野町連中と俳諧をやるくらいだから、中流程度の身分ではあったであろう。
 その次の妹は、土芳の『全伝』に「女子堀内氏ヘ嫁ス」とある。ただし堀内氏がどんな家だったかはわからない。伊予から名張郡宇山村に移り、更に上野へ移住して、蝋燭屋と蔵屋とを営んでいた堀内氏(屋号は丸屋)があることを、菊山当年男著『ばせを』は報ずるが、その家に芭蕉の妹が嫁したという証拠は何もない。強いていえば、芭蕉の母の実家が伊予から移って来た家であることを考え合わせると、右の堀内氏ではないとしても、これと多少の関係があるかもしれない、とは考えられる。
 三番目の妹は、土芳の『全伝』に「女子 およし 後命清が養女ト成」とある。命清とはすなわち半左衛門で、つまり松尾家の長兄の養女になったという意味である。土芳の『全伝』によれば、半左衛門には又右衛門という実子があったらしいが、これは実子ではなく、およしの婿だという説が最近有力である。そうなると、夫婦養子ということになる。また又右衛門は元禄十二年(一六九九)十月十七日に没しているから、あるいは又右衛門の没後に、およしを養女にしたものとも考えられる。
 土芳の『全伝』によれば、およしは儀左衛門という婿を迎えているが、右の説に従うと又右衛門は結婚後儀左衛門と改名したことになる。はっきりしたことはわからない。
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