名前と俳号
芭蕉の系累について長々と述べたが、芭蕉自身に筆を戻して述べよう。土芳の『全伝』によれば、芭蕉は「金作・半七・藤七郎・忠右衛門ト云、後に甚七郎(ト)変名ス」とあり、ほかに宗房《むねふさ》とも名乗ったが、これは藤堂新七郎家へ出仕後の名乗りか。同家には、代々宗房を名乗る近侍がいたという説もある。後年宗房の名で句集に作品が載るようになるが、それは宗房《そうぼう》と音読して俳号に用いたのであろうといわれている。
俳号については、三十二歳頃から桃青の号を用い始め、これは芭蕉の号と共に長く用いられた。芭蕉の俳号を用い始めたのは、三十八、九歳頃からと思われ、俳書に芭蕉号が出て来るのは、天和二年(三十九歳)三月刊の『武蔵《むさし》曲《ぶり》』が初見である。
その外、二十歳代で「釣月軒《ちようげつけん》」の庵号を用い、三十五歳十月の『十八番発句合』跋文に「坐興庵《ざきようあん》桃青」と署して「素宣《そせん》」の印を用い、三十七歳九月の『常盤《ときわ》屋《やの》句合《くあわせ》』の跋文には「華桃園《かとうえん》」を用い、同年冬に移った深川の草庵は「泊船《はくせん》堂」と自称した。またこの頃(延宝末年頃)、「栩々《くく》斎花桃夭《とうよう》」と署したこともある。その外、夭々軒・芭蕉洞・風羅坊・土糞・杖銭・鳳尾・羊角・羽扇などが、庵号・別号または印記として用いられた。こんなことは一般の読者には余り興味もないことであろうが、念の為書き添えておく。
芭蕉の幼少の頃のことは解らない。十四歳で「いぬとさる世の中よかれ酉《とり》の年」と詠んだなどの伝説(『奥の細道菅菰抄』)は、阿部喜三男氏ならずとも、固く否定すべきである(人物叢書『松尾芭蕉』)。
蝉吟・藤堂良忠に仕える
芭蕉は長じて藤堂新七郎家に仕えた。当時藤堂藩三十二万石の本拠は津にあった。少し後の著作だが『国華万葉記』という一種の旅行案内記の伊賀の部に「当国は勢州|藤堂《トウダウ》家御領分」とある通りである。伊賀には城代として藤堂|采女《うねめ》元住(貞享四年没)が居り、食禄七千石を食《は》んでいた。藤堂新七郎家はその下の伊賀付き士《さむらい》大将の家で、五千石を食み、当時は二代目の藤堂新七郎|良精《よしきよ》(延宝二年没)の代であった。元来は藤堂家の出ではなく、多賀氏の出で、藩祖藤堂高虎の母方の叔父新助良政に出るという(岡村健三『芭蕉伝記考』など)。
良精は、良政の子藤堂新七郎良勝のあとを継いだ。芭蕉は、その良精の嗣子《しし》主計《かずえ》良忠《よしただ》に仕えた。良忠は良精の三男であったが、兄二人が早世したので嗣子《しし》に定められていた。良忠の弟で四男の五良左衛門良重は、万治元年十歳の時、藩主から別知三百石を賜わって別家していた。良忠は寛永十九年(一六四二)の生まれで、父良精四十二歳の時の子であり、芭蕉より二歳の年長になる。
良忠は蝉吟《せんぎん》と号して貞門派の俳諧に遊んだ。俳諧の師は北村|季吟《きぎん》である。季吟は古典の注釈書を多く著わして有名だが、和歌をよくする傍ら、若い頃から貞門派の俳諧を学び、貞門派の俳諧師としても名を知られていて、多くの門人があった。寛永元年の生まれであるから、良忠より十九歳の年長である。良忠すなわち俳号蝉吟の句が俳書に初めて見られるのは、寛文四年(一六六四)十月頃刊の松江|重頼《しげより》編『佐夜中山集』である。
北村季吟はそれより四年前(万治三年)に、『新続犬筑波集』という俳諧集を編集しているが(刊行は寛文七年)、その書は作者七百二十七人、句数は付け句千百三十九句、発句三千百三十句に及ぶ大著であるのに、蝉吟の名は見えないから、その時は蝉吟はまだ季吟に入門していなかったのであろう。もし入門していたら、五千石の大身の子息の句を一句も入集させないはずがない。芭蕉の句ももちろん入集していない。『佐夜中山集』の出版された寛文四年は、蝉吟二十三歳、芭蕉二十一歳である。『新続犬筑波集』の編集の成った万治三年は、それより四年前になる。蝉吟が季吟に入門して俳諧を学び出したのは、その間であろう。
『佐夜中山集』は、横本六冊の大きな撰集であり、刊行は寛文四年十月頃だが編集にはかなりの時日を要したと思われ、また季吟が入門早々の蝉吟や芭蕉の句をすぐ採録するとも思われないので、蝉吟の季吟入門はおそらく寛文元年(万治四年)か、二年の頃と見てよいであろう。
十九歳出仕説が妥当か
芭蕉がいつ頃から藤堂新七郎家に仕えるようになったかについては、従来諸説がある。芭蕉の直門である各務支考は「承応の比《ころ》」(『本朝文鑑』所収「芭蕉翁石碑ノ銘並序」)だというが、そうなると十歳前後から仕え始めたことになる。竹人の『全伝』には「幼弱の頃より藤堂主計良忠蝉吟子につかへ、愛寵《あいちよう》頗《すこぶる》他に異なり」とあり、「幼弱の頃」が何歳かは解らないが、十歳前後とも考えられる。これに対し土芳の『全伝』(曰人写)の「家系図」のところには、「明暦ニ仕ウ」(十三歳前後になる)とし、また一方「十九歳召出サレ」ともあり矛盾がある。
この「家系図」は元来土芳の記したものではなく、曰人が書き添えたもののように思われる節もあるので、俄かに従うことはできない。やや時代の下る竹二坊の『芭蕉翁正伝』や、去留の『芭蕉翁全集』、大蟲の『芭蕉年譜』、湖中の『芭蕉翁略伝』等は、いずれも寛文二年十九歳出仕説である。冬季の『蕉翁略伝』は寛文年中とする。その外、蝶夢の『芭蕉翁絵詞伝』は明暦説である。確証はないが、寛文二年十九歳出仕説に従いたい気がする。