勤めは御台所御用人や良忠の近侍役
十九歳で藤堂新七郎の嗣子主計良忠に出仕した芭蕉は、そこでどんな仕事をしていたか。曰人の『芭蕉伝』(『芭蕉翁系譜』ともいう)に、
一、藤堂家の一門藤堂新七郎、其家臣也。御台所御用人を勤めたりと云。其帳面今に有て、けしたう菜を印たる篤実今にありとぞ。諸人見るゆゑ、其所|斗《ばかり》よごれたりとぞ。
とある。御台所御用人ばかりしていたと考える必要もないが、出仕中のある時期に御台所御用人をしたことがあったとしても不思議ではない。芭蕉の実家の身分からいっても、そのくらいのところが、ありそうな役目である。
芭蕉が料理人だったという説を伝えるのは、柏筵《はくえん》の『老の楽』という本である。柏筵はそのことを、自分の師匠の破笠《はりう》から聞いたこととして書きとめている。破笠は、芭蕉の晩年に僅かに芭蕉に接した門人であるから、余り確実な話とはいえないし、その話を書きとめた柏筵にしても、昔聞いた話を回想して書いているのであるから、記憶違いということもあるし、料理人説を文字通りに解することはできないが、しかし「御台所御用人」と「料理人」とには多少共通点がある。「御台所御用人」というのが、破笠の話か、柏筵の書きとめの間に、間違って伝えられたものではあるまいか。
「御台所御用人」説を信ずるとしても、時に近侍役をしたこともあるかもしれない。良忠のところで俳諧の会がある時は、その一座に加わりもした。良忠の「愛寵《あいちよう》」が「頗《すこぶる》他に異なり」(竹人『全伝』)で、芭蕉を特に寵愛したという記事は額面通りには受けとれないとしても、良忠(俳号蝉吟)が俳諧好きの青年であったことを思うと、ある程度は信じてよいことであろう。
俳諧が出仕の機縁に?
従来の通説では、芭蕉は良忠(蝉吟)に仕えて始めて貞門俳諧を学び、季吟を師としたことになっているが、十九歳出仕説を前提とすれば、あるいは出仕前にすでに貞門俳諧を学んでいたのではないかと思われる。それは菊岡|沾涼《せんりよう》がその著『綾錦』に、自分の祖父の菊岡随性軒如幻が「導いて季吟の門に入る」(原漢文)と書いているからである。
菊岡随性軒如幻は、伊賀の上野で質商を営む裕福な商家の主人で「学問を好んで洛の季吟に師事し、特に和歌をよくした」(前掲書)人である。商人ではあるが学者でもあって、多くの著述があった。その子の行尚も、和歌や俳諧を好んで居り、その養子が沾涼《せんりよう》である。沾涼は後に江戸に出て、俳人として活躍し、また『江戸|砂子《すなご》』など学問的著述も知られている。それだけの人物が書き遺していることばだけに無下にしりぞける訳にも行かない。如幻のような学問好きの商家の主人が、これも学問好きの若い青年である芭蕉を、自分の師匠の季吟に引き合わせようとしたことぐらい、あっても差し支えないことである。
ただし如幻は俳諧より和歌の方に興味があったようだから(季吟は俳諧師であると共に歌人としても知られていた)、芭蕉が如幻の紹介で季吟にこの時入門し、すぐ俳諧に深入りするようになったかどうかは、少し疑問を残して置いた方が無難であろう。芭蕉が如幻の紹介で季吟に会ったのを、十七、八歳頃と仮に考えれば、父を失ってから五、六年後のことで、兄が家督を継いでいたとはいえ、次男の若い芭蕉が俳諧に熱中できるほど生活に余裕があったとも思われない。季吟に会ったことがあるとしても、正式入門という程のものでなく、和歌、俳諧に興味を持つ若い芭蕉を、如幻が季吟に引き合わせたというぐらいに考えた方がよいかもしれない。
だが、芭蕉が良忠に仕えるようになった機縁に俳諧が何程かの役割を果たしていると考えることは、必ずしも不当ではない。学問好き、俳諧好きの青年を、同じ俳諧好きの良忠が、自分の身辺に使ってみようと考えることは極めて自然であり、良忠が上野の商家の主人で俳諧好きの人たちと交際があったことは後述する通りである。それらの町人の誰かが芭蕉を推挙したと想像することも強《あなが》ち有り得ないことではあるまい。
良忠(蝉吟)が、上野の町人や芭蕉たちを交じえて巻いた俳諧の連句(百|韻《いん》)がのこっている。それは寛文五年(一六六五)の冬、十一月十三日に巻かれた百韻で、松永貞徳の十三回忌を追善して行なわれた俳諧である。
貞徳翁十三回追善俳諧
野は雪にかるれどかれぬ紫苑《しをん》哉《かな》 蝉吟公
鷹の餌《え》ごひと音をばなき跡 季吟
飼狗《かひいぬ》のごとく手馴《てなれ》し年を経て 正好
兀《はげ》たはりこも捨《すて》ぬわらはべ 一笑
けふあるともてはやしけり雛《ひいな》迄 一以
月のくれまで汲むもゝの酒 宗房
長閑《のどか》なる仙の遊にしくはあらじ 執筆
(以下略)
発句は貞門俳諧の祖である貞徳追善の意を籠めたもので、秋草の紫苑《しおん》に師恩をかけてある。季吟の脇句は、発句を予め作り京の季吟のところへ送って、脇句を請い受けたもので、この時の会合に季吟が来て作ったのではない。第三句目の作者正好は、窪田六兵衛政好かと考えられ、上野の裕福な町人で、後の蕉門の猿雖《えんすい》はその甥だといわれる。第四句目の一笑は、保川弥右衛門、一以は松木氏で、共に町家の主人と考えられる。宗房は即ち後の芭蕉である。
一以は貞室系の『玉海集』に「伊賀上野松木氏」として句が収録されて居り、重頼編の『佐夜中山集』(寛文四年九月廿六日の奥書き)には正好が七句、一笑が六句、宗房が二句、蝉吟が一句入集している。正好、一笑等は俳諧作者としては蝉吟や宗房等より先輩であることが察せられる。この寛文五年は芭蕉が二十二歳で、蝉吟は二十四歳であった。