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芭蕉 その人生と芸術06

时间: 2019-05-21    进入日语论坛
核心提示:初期の作品十九歳の冬つくった発句 今日年代の知られる芭蕉の最古の作品は、廿九日立春ナレバ春やこし年や行けん小《こ》晦日《
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 初期の作品
 
 
十九歳の冬つくった発句
 今日年代の知られる芭蕉の最古の作品は、
 
廿九日立春ナレバ
春やこし年や行けん小《こ》晦日《つごもり》   宗房
 
(『千宜理記』)
 
という発句である。寛文二年芭蕉十九歳の冬の作である。一句の意味は、今年は十二月二十九日が立春だが、これは春が早く来たのか、年が早く去ったのか、どちらというべきなのだろう、というようなことで、「小晦日」は、季吟編の『増《ぞう》山の井』(寛文三年刊)の冬の部に「小つもごり 俳晦日の前日也」とある通り、十二月二十九日を指す。寛文二年(一六六二)は、十二月が小の月で、二十九日は小晦日であり、また大晦日でもあり、また立春でもあった。またこの句は『伊勢物語』の「君や来し我や行きけむおもほへず夢かうつゝか寝てかさめてか」を踏んでいる。
 一方、「年内立春」という素材は、『古今集』巻頭の「年の内に春は来にけりひととせを去年とやいはむ今年とやいはむ 在原元方」の有名な歌以来、和歌や連歌では何度も何度も取り上げられている素材で、その和歌的伝統は、俳諧の中にも継承され、すでに貞門派の俳諧でも多くの作品が見られる。
 
立春旧年なりければ
ゑいやっと越《こえ》ぬる年や二またげ   重方
年内立春
年の内は片足で立《たつ》春日哉      光有
来る春は年の内へやとまりがけ   元弘
年の内の春は陰陽和合《いんやうわがふ》かな     永治
としのうちへ年の矢入の春日哉   成政
立春のとなりへ来るや門たがへ   宗房
 
  (芭蕉の宗房とは別人)
年の内の霞の袖やひゐなだち    政公
 
(明暦元年板『毛吹草』)
古典への優越意識と解放感
 芭蕉もまたこれらの和歌、連歌、俳諧の伝統に素直に従ったまでであって、ちょうど寛文二年の歳の暮れに立春が来たので、これを素材として取り上げたのである。当時の貞門俳諧の作風と特に異なる点はないといわなければならないが、それは漸く俳諧の道に入り初めた頃の作品として考えれば、また当然のことである。ただし、前掲貞門派の諸作を含めていえることだが、「年内立春」という和歌以来の古典的素材を、俳諧に於いては一種のパロディとして扱い、言語遊戯を楽しんでいる。そこには、古典に対する一種の優越意識と解放感がある。それが近世人の魅力となって、貞門俳諧を広く流行させたものであろう。貞門俳諧には、古典的素材をもじって使う言語遊戯的手法が非常に多いが、それは今までは厳粛な権威だった古典を、いわば戯画化することによって生ずるおかしみがねらいである。そこには権威から解放される快感が伴っていた。
 若い芭蕉がまず俳諧に引きつけられたのも、上野の町人たちが俳諧を愛好したのも、また若い武士である蝉吟が俳諧を好んだのも、その辺に魅力を感じたからであろう。芭蕉の十九歳の作品が、単純な言語遊戯的作品だったとしても、そこには今日の読者の評価とは異なる、当時としての感じ方の新しさ、おもしろさがあったに相違ない。なおまた、この句が良忠に出仕した十九歳の年の歳末の吟であることは、すでに芭蕉が出仕前に多少の俳諧的素養があったことを思わせる証跡の一つであろう。十九歳の何月に出仕したかは明らかでないが、出仕以前に全然俳諧をしていなかったとすれば、出仕と同時に主君の俳諧の相手をすることは不自然であるから、出仕後程経て何かの折りに俳諧の手ほどきを受けたことになるが、それにしてはこの年内立春の句はかなりの練達ぶりと見られるからである。
 
ことばの遊戯に一種のおかしみ
 
月ぞしるべこなたへ入《いら》せ旅の宿
 
松尾宗房
(『佐夜中山集』)
 
 この句は寛文四年(一六六四)六月上旬以前の秋の句であるから、芭蕉が二十歳かまたはそれ以前の作ということになる。謡曲「鞍馬天狗《くらまてんぐ》」の中に「奥は鞍馬の山道の花ぞしるべなる。此方へ入らせ給へや」という文句があるが、その文句をほとんどそのまま取り入れて句に仕立てたところが、この句のねらいである。月がよい道案内をしてくれます、さあどうかこちらへおはいりになって旅の宿としてください、というくらいの単純な意味で、取り立てていうほどの情趣もないが、ねらいは謡曲の文句を巧みに使ったところにあり、その言語遊戯に一種のおかしみがある。
 謡曲の文句を俳諧に取り入れ、もじって使う手法は、後に談林派の総帥《そうすい》となった西山|宗因《そういん》(当時はまだ大坂天満宮連歌所宗匠で、談林派樹立以前)によって刺激されたもので、宗因流の俳諧として、貞門派の内部ではやや尖端的な傾向に属していた。しかし、この手法は貞門派でもおもしろい手法として歓迎され、次第に流行を見るようになる。芭蕉のこの句を採録した『佐夜中山集』の編者松江重頼は、貞門派の中でも謡《うたい》俳諧を好んでいた人物である。
 
京は九万九千くんじゅの花見|哉《かな》  宗房
 
  (伊州上野松尾氏)
(『詞林金玉集』)
 
 寛文六年芭蕉二十三歳の春以前の作である。「くんじゅ」というのは「群衆」のことで、群衆と花見とを結びつけて詠むのは当時の慣例である。
 
吉野たばこきせるくんじゅの花見哉
 
尼ケ崎野天
(『桜川』)
 
花はくんじ人はくんじゅの木陰哉 宗除
 
(『新版増補毛吹草』寛文十二年版)
 
など同種の用例は多い。念のためいえば、前者はたばこの煙管《キセル》で吉野たばこを燻《くん》ずる意味と吉野の花見に人々が群衆して来ている意味との掛け詞《ことば》である。後者は花は薫《くん》じ(香り)、人は群衆《くんじゆ》すると語呂《ごろ》を合わせたところにねらいがある。
 さてこの芭蕉の句は、花見と群衆との結びつきの慣例に従うと共に、一方で京都の人口が九万八千家といわれていることを用いている。それは例えば『日本略記』や『本朝二十不孝』その他に見えるし、俳諧でも「京や九万八千年のかどの松 常倫」(『山の井』)というように用いられている。その「九万八千」を「九万九千」と変えたのは「九千くんじゅ」(貴賤群衆《きせんくんじゆ》)と用いたかったからで、その言語遊戯に一種のおかしみがある。
 
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