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芭蕉 その人生と芸術07

时间: 2019-05-21    进入日语论坛
核心提示:良忠の死と致仕風雅の友・主君良忠の愛護を失う 日常生活としては、御台所御用人をしたり、近侍役をしたりしながら、一方では良
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 良忠の死と致仕
 
風雅の友・主君良忠の愛護を失う
 日常生活としては、御台所御用人をしたり、近侍役をしたりしながら、一方では良忠の俳諧の相手としてこのような句を作っていたのが、芭蕉が十九歳から二十三歳の春までの生活である。
 当時の俳書に、良忠(蝉吟)と並んで宗房の句が見られるから、蝉吟は俳諧の相手として宗房(芭蕉)を寵愛したに相違ない。竹人の『全伝』に「愛寵頗他と異なり」とあることは前にも引用したが、それは俳諧に関する限り正に当たっていたといってよいであろう。蝉吟にしても朝から晩まで俳諧を作っていた訳ではないから、芭蕉は御台所の帳面付けをしたり、近侍役をしたりしていたが、蝉吟は句ができれば芭蕉を呼んで見せ、新しい俳書が届けば芭蕉を呼んで読み合うという調子だったろうと想像される。だから若い二人は、主従ではあるが、また風雅の友でもあった。
 もちろん封建制の確固たる時代のことだから、主従の別は厳たるものがあったし、蝉吟は二歳の年長でもあったから、芭蕉は常に下風についていたには相違ないが、それでも若い二人だけにおのずから親しみ合う気持ちはあったであろう。
 ところが、その良忠が、芭蕉二十三歳の寛文六年(一六六六)四月二十五日に、二十五歳を以て病没してしまった。俳諧好きの良忠があってこそ、芭蕉の藤堂新七郎家に於ける地位は安泰であったのである。突然良忠になくなられて、芭蕉は悲歎の涙にくれた。それは寵愛を受けた主君を失った悲しみであるが、また自己の前途が俄かにまっ暗になった悲観の気持ちもあったに相違ない。
 良忠にはすでに二人の女の子があったが、同年出生の長男はおそらくまだ母の胎内にいたことと思われる。父の良精《よしきよ》は時に六十六歳であった。封建制下の武家の家としては一日も早く嗣子《しし》を定める必要があった。そこで良忠の弟で当時十八歳の四男五良左衛門良重が嗣子に定められた。四男といっても兄が三人とも死んだのであるから、外に求めるべき嗣子はなかった。前述した通り、良重はこれより先、万治元年(一六五八)十歳で別家し、藩主から別知三百石を賜わっていたが、ここに父命に従って本家に復し、二歳年長の小鍋(良忠の未亡人)と結婚することになった。家を大事にする当時の武家社会としては、常識的な措置《そち》ともいえよう。
 念のためいえば、この良重も、父良精の存命中、二十四歳でなくなり、結局良精の跡を継いで藤堂新七郎家の三代目となったのは、良忠の没後生まれた良忠の子の新之助|良長《よしなが》である。後年のことだが、芭蕉は成人したこの良長に会い、「さまざまのこと思ひ出す桜かな」と詠んだ。その時は良長も父にならって俳諧をたしなむ青年になっていた。
 藤堂新七郎家の過去帳には、寛文六年六月二十四日の条に「六月廿四日、良精公ヨリ高野山報恩院ヘ位牌・日牌寄付ス」とある由だが、使者の一人として芭蕉も高野山へ行き、主君の菩提《ぼだい》をねんごろに弔《とむら》った。
 
願い出て藤堂家の勤めをやめる
 主君の死にあった芭蕉は、やがて主家を辞去することになった。旧説では、芭蕉は退官を願ったが許されず、無断で出奔亡命して京都へ出たとする。しかし、近年の研究は亡命説には批判的である。私も亡命説は取らない。簡単にいえば、亡命すべき理由がなく、亡命した証拠がなく、亡命したとは思われない反証が挙げられるからである。
 芭蕉は藤堂新七郎家の当主良精に仕えていたのではなく、子の良忠に仕えていたのであり、しかも出仕して四、五年の新参者である。俳諧を以て特に良忠の寵愛があったが、良忠が没して、特に俳諧好きでもない弟の良重が嗣子に定められた時、致仕を願い出て許されないはずがない。退官が許されれば、もちろん出奔亡命はない。良忠のあと嗣子に据えられて本家に戻って来た良重は、すでに別居して三百石を賜わっていたのだから、当然自分の家来を持っていた。その家来を連れて本家に復帰したのだから、人は余って来る。それに、藤堂新七郎家も経済状態は決してらくではなかった。殊に寛文六年はこの地方は飢饉《ききん》だった。芭蕉一人養えないことはないとしても、あえて余分なものを置く必要もない。
 したがって、芭蕉は、やめろとはいわれなかったとしても、何となく居心地が悪くなり、やめざるをえないような立場になったのではあるまいか。それはまた、兄や親戚の者たちの眼から見ても、やむをえないと思われるような成り行きだったであろう。それでなければ、芭蕉一人がやめるといい出しても、兄や親戚の者たちがとめないはずがない。
 
兄の家の食客となって俳諧づくり
 芭蕉は藤堂新七郎家を辞して、兄の家の食客となって日を過ごした。前途の方策について心を労したであろうが、格別名案があったとも思われない。結局は次第に俳諧に深入りをして行くことになった。
 
霰まじる帷子《かたびら》雪はこもんかな
 
伊賀上野宗房
(『続山の井』)
 
 芭蕉二十三、四歳の頃の作と推定される。「かたびら雪」は、雪片の薄く平たいものと辞書にある。地面にかたびら雪が降り積もってその上に霰が散っているさまを、衣服の帷子の縁語で、小紋(こまかい模様の織物、また織物のこまかい模様)のようだといったものである。もっとも帷子雪(片平雪・かたびら雪)をこのように詠むこともすでに貞門俳諧の常套的手段であって、特に珍しいことではない。
 
踏跡はかたびら雪の縫目哉     重方
 
(『毛吹草』)
辻風はかたびら雪のもやう哉    信徳
 
(『口真似草』)
 ならへまかりし時
佐保路なるかたびら雪やならざらし 良徳
 
(『犬子集』)
山姫はかたびら雪をかつぎかな   貞徳
 
(『同右』)
たち縫はぬ帷子雪やひとへ物
 
(『小町踊』)
二日ふるかたびら雪やひとかさね
 
中嶋内蔵亟貞義
(『鷹筑波』)
 
 などといった調子である。芭蕉の独創的な点はまだ出ていないというべきであろう。
 
初瀬にて人々花を見けるに
うかれける人やはつ瀬の山桜   松尾宗房
 
(『続山の井』)
 
 この句は『千載集』の源俊頼の歌「うかりける人をはつせの山おろしはげしかれとは祈らぬものを」に拠ったもので、句意としては、初瀬の山桜を見に多くの人々が浮かれ出て来ている、というだけのことであるが、俊頼の和歌を巧みにもじったところが、ねらいである。ただし、この俊頼の和歌もすでに貞門派に於いてはしばしばパロディの材料に使われて来ているもので、芭蕉によって始めて使われたものではない。例えば、
 
初瀬の寺にいのりそこなふ
うかりける人にはげしくしかられて
 
(『毛吹草』)
はげしかれとやほゆる声々
うかりける人を初瀬の山の犬   改明
 
(『鷹筑波』)
 
などの如くである。
 
大して認められないままに五、六年
 こんな貞門派としては普通の作品を作りながら、芭蕉は少しずつ京都の俳壇に名を知られ始めた。また芭蕉自身も上野から折り折りに京へ出かけて行った。上野から京へは大した旅ではない。朝早く立って、舟や馬の便を使えば一日で京へ着いた。途中一泊すれば楽に出られる。
 京では北村季吟の許を訪ね、また季吟の門人たちにも紹介されたと思われる。季吟の門人を介して更に他門の貞門俳人たちと交じわることもあったであろう。それは、後に芭蕉が江戸へ下った時、京の季吟門だった似春《じしゆん》等のグループと交際が親密で、また京から江戸へ下って来た貞門系の人々とも交際があることから推測される。
 芭蕉が致仕した寛文六年には、季吟の長子季長が元服して湖春となり、宗匠として独立している。季吟門の高弟山岡元隣が、宗匠披露の興行をしたのもこの年である。翌寛文七年七月刊の湖春編(表向きは季吟編)『続山の井』に、宗房の発句二十八句と付け句三句の多数を収録していることは、寛文七年前半期までに、芭蕉が京へ出て、季吟や湖春に接近したことを示すものであろう。
 それでは、その後芭蕉の名が俳壇に急速に擡頭したかといえば、その形跡はない。寛文九年安静編の『如意宝珠《によいほうしゆ》』(刊行は延宝二年)に「伊賀松尾氏宗房」として発句六句、寛文十年刊、正辰編の『大和巡礼』に「伊賀上野住宗房」として発句二句、寛文十一年刊、友次編の『藪香物《やぶのこうのもの》』に「伊賀上野宗房」として発句一句などが見られるが、五、六年間の活動の成果としては、極めて乏しいものといわざるを得ない。芭蕉は、季吟についたものの、京都の俳壇では余り認められなかった。
 季吟について俳諧を学んだ外に、芭蕉が、書を北向雲竹に、詩を伊藤坦庵に、儒学を田中桐江に学んだとする旧説は、近年の研究により全く否定された。
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