俳諧一途のほかに道はなかった
芭蕉は、上野の兄の家の部屋住みの身の上で、時折り京に出て、しばらくは滞在したこともあるかもしれないが、結局は上野が本拠であった。京へ出て都会の華やかな空気に触れ、多少の遊蕩もしたらしいが、まえに述べたように、あまり裕福でない下級武士の家の食客の身で、大した遊びができるはずもない。後年のことだが、兄半左衛門は、俳諧隠者となった芭蕉に家計の合力を頼まなければならない位の状態である(書簡)。もし富裕な家なら、次男でも分家をして多少の財産が分け与えられたであろう。しかしそんな余裕がある家ではなかった。
芭蕉は二十八歳になっても、まだ部屋住みの生活を碌《ろく》々として過ごしていた。それが中流以下の家の次男・三男に共通の運命であった。芭蕉だってもちろん結婚したかったであろう。結婚して暖かい家庭を持ち、充実した仕事をしたかったであろう。しかし前途は暗澹としていた。すでに慶安四年(一六五一)の由井正雪の乱が示しているように、牢人対策が社会問題になっていた時代である。失業武士の道はふさがれていたのだ。
芭蕉が始めから俳諧を以て世に立とうとしていたとは信じられない。後年「幻住庵記」に「いとわかき時より、よこざまにすける事侍りて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、終に此一すぢにつながれて、無能無才を恥るのみ」(米沢家蔵真蹟)とあるのは、文飾はあるとしても、実感に基づいていよう。できるならば公に仕え、俳諧は趣味として楽しみに作りたかった。同じ「幻住庵記」に、「ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏籬《ぶつり》祖室の扉《とぼそ》に入らむとせしも」(『猿蓑』)とある通りである。
しかし、仕官を退き、前途についてあれやこれやと試行錯誤をくり返しているうちに、時は空しく過ぎ去り、三十も眼の前に迫って来た。芭蕉はこの五、六年の暗中模索の間に、次第に俳諧を以て世に立とうと考えるに至ったのではないか。他の道が閉塞されているだけに、十代の時から好んで来たこの道を、自分の生涯の道に選ぶ決意が、ようやく心中に固まって来たのだと見たい。
ここに現状打破への衝動
寛文十二年(一六七二、二十九歳)の正月二十五日、芭蕉は、最初の著述『貝おほひ』を、折りから例祭の行なわれている上野の天満宮に奉納した。菅原道真を祭る天満宮に奉納したのは、天満宮が古来文運の神で、和歌・連歌以来、作品を奉納する慣習があったからである。恰《あたか》もこの年は、菅原道真の七百七十年忌に当たってもいた。『貝おほひ』は三十番の発句|合《あわせ》である。しかしただの発句合ではない。当時の流行歌謡や俗謡や一癖《ひとくせ》ある流行語などを「種として」(序文)作られた発句ばかりを六十句集め、これを左右二組に分けて、一番ずつ勝負をさせた三十番の発句合である。しかも、芭蕉はその勝負の判をするのに、判詞を書いているが、これも当時の流行歌謡や流行語を盛んに取り入れて、自由奔放、機智縦横に、おもしろおかしく書いている。才気煥発、青年らしい客気に溢れた文章である。中にはかなりの遊蕩的・享楽的な傾向もある。一例を以て示そう。
廿三番
左勝 余淋
しつぽとやぬれかけ道者《だうじや》北時雨
右 政当
しぐる音《おと》やさつさやりたし蓑《みの》と笠《かさ》
左の。ぬれかけ道者は。ぼつとりものゝ。しなものゝ。袖に時雨の。通りものとや申さん。右の句。さつさ。やりたし。なんしゆんさまと。うたへば。あつた物じや。ないはさあといはまほしけれど。とても。ぬりよ。なら。なま中しぐれは。いやよ。君がなみだの。雨に。しつぽりと。ぬれかけ道者を。例のかちとや定めん
作品にも判詞にも、浮き浮きとした、享楽的な調子がある。この外にも「今こそあれ。われもむかしは衆道ずきの。ひが耳にや」(二番)とか、「伊勢《いせ》のお玉は。あぶみかくらかと。いへる小哥なればたれも乗たがるは。断《ことはり》なるべし」(十七番)とかいうような判詞の書きぶりには、元禄という時代の刹那的・遊蕩的世相の一端を反映しているように見える。また例えば「されど判者も。ひとつ過《すぎ》て。耳熱し。目も。ちろりの。みぞれ酒。のみこみちがへも有やせむ。……」(廿五番)などという判詞の書きぶりは、従来の発句会の判詞とは全く性質を異にするもので、芭蕉の中に、何か現状を打破したい衝動があって、この書をなさしめたのではないかと思わせるものがある。
俳諧に運命をかけた背水の陣
流行歌謡や流行語を句中に詠みこんだ作風は、当時としては珍しいものではない。しかし、それらを詠みこんだ作品だけを集めて、発句合を作り、その判詞を、また流行歌謡や流行語をふんだんに駆使して、洒落のめして書くという構想は、若い芭蕉によって始めて試みられたものである。無名の若い芭蕉があえてこの種の著述をしたことは、芭蕉の胸中に、微温的な貞門俳諧に満足できない気分が、鬱然と高まって来たことを示すものではないか。まだ談林派ははっきりとした形では起こっていない。宗因は前年の寛文十一年十月に九州各地遊歴の長い旅から大坂へ帰って来たばかりで、俳諧的活動を始めるのは、寛文十二年以後である。
しかし貞門派の現状にあきたりない空気はすでに貞門派の内部に萌《きざ》していた。宗因の活動は、その現状打破に火をつける役割を果たしたものである。寛文十二年正月のこの著述は、これから起こる談林派の俳諧革新の動きを予見したものと見ることもできよう。遊蕩的・享楽的だといっても、芭蕉はそういう方法で、貞門俳諧の微温的風潮に反発しているのだ。自由と現実性の要求が、都会的|放恣《ほうし》の形をとったのだ。因襲的・保守的な空気のみなぎっている上野の盆地の中で、自由の空気を吸いたい、もっと時代の現実に触れたいという青年の野心が、このような形をとって顕現したのだと見てよいであろう。部屋住みに閉じこめられた、不遇な青年が、ようやく見出した詩の活路である。
しかし、こういう著述を公にし、天満宮に奉納する以上、武家奉公の道は諦めたと見ざるを得ない。また、師であった北村季吟の道とも別れることを意味する。季吟は歌人でもあり、学者でもあり、伝統的・保守的であって、革新の気風には乏しい。季吟の門にあって、季吟の膝下の京都で、新しい俳諧に志を伸ばすことは不可能である。芭蕉は、すでに何年かの経験で、季吟門にあって、これ以上自分を俳諧師として伸ばすことは困難だと見ていた。『貝おほひ』一巻の著述、それは所詮青年客気の著であり、高い文学的価値を持つものではないとしても、芭蕉にとっては、いわば背水の陣を敷いたものだといえよう。武家奉公も断念し、季吟門で認められることも放擲し、新しい俳諧の道に於いて自分の運命を開拓しようという覚悟が、この著述の背景にあったと見てよいのではないか。
そう考えると、芭蕉の江戸出府は、最早必然の道である。江戸は、京・大坂に比べれば新興都市である。新興都市には伝統や門閥《もんばつ》の桎梏《しつこく》がない。無名の青年が志を立てる上で、京・大坂に勝ること万々である。殊に季吟と気拙《まず》くならないためには、季吟から遠い方がよい。もっとも、江戸もまた「空手《くうしゆ》にして金《こがね》なきものは行路難し、といひけむ人の、かしこく覚え」(『柴の戸』)られるような土地ではあった。しかし、政治・経済についで、文運|東漸《とうぜん》の萌《きざ》し始めた江戸を芭蕉が選んだことは、さすがに青年芭蕉らしい着眼であったといえよう。