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芭蕉 その人生と芸術09

时间: 2019-05-21    进入日语论坛
核心提示:江戸俳壇と芭蕉「三十にして立つ」の決意 芭蕉が江戸へ出た時期については従来諸説がある。しかし上来述べて来たところによって
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 江戸俳壇と芭蕉
 
「三十にして立つ」の決意
 芭蕉が江戸へ出た時期については従来諸説がある。しかし上来述べて来たところによって、「寛文十二子の春東武ニ下リ、名ヲ桃青トス」という土芳の『全伝』の説に従いたい。それがまた通説でもある。「雲とへだつ友かや雁の生キ別れ」(『冬扇一路』)は、志田義秀博士の考証(『問題の点を主としたる芭蕉の伝記の研究』)のとおり、この時の留別の吟であろう。とすれば、「雁の別れ」は春の季題だから、芭蕉の出立は、『貝おほひ』を天満宮に奉納した寛文十二年の正月二十五日から、一、二ヵ月のうちに行なわれたことになる。
 二十九歳にもなって、兄に寄食して口惜しい毎日を送っている青年が、而立《じりつ》の齢を前にして、志を立てて江戸へ出るのである。その胸中に「三十而立《さんじゆうにしてたつ》」の著名な語が浮かばなかったはずはない。郷関を出る以上、何とかして俳諧の道で自己の将来を切り開こうという夢と野心があったに相違ない。出世はあえて俳諧に限ったことではないが、『貝おほひ』の原稿を携えて江戸へ出ていることを以てしても、俳諧師としての道が芭蕉の脳裡にあったことは明らかであろう。
 二十代の暗中模索の間に、最早他の道が閉塞されていることを、芭蕉はいやというほど知らされていたはずである。江戸への出発は、兄や親戚や、友人知己の激励の下に行なわれたと見てよい。準備もなく、血気にはやって飛び出したのではなく、然るべき紹介状を貰うなどの用意はしていたらしく思われる。江戸へ出てから、日本橋本船町の名主小沢太郎兵衛、俳号|卜尺《ぼくせき》の許に世話になったり、杉山|杉風《さんぷう》を知ったりしたのも、在郷中に伝手《つて》が求めてあったからである。
 
談林化へ動く貞門の宗匠たち
 当時の江戸俳壇を概観すると、大体三つの系統を考えることができる。私がそう考えるばかりでなく、江戸の貞門(松永貞徳を師とする一派)を研究している学者たちの見解も大体そのようである。
 一つは、従来から江戸に俳諧師として門戸を張り、門流を持っていた人々である。江戸の貞門としては、俗に江戸五哲と呼ばれる人々、即ち斎藤徳元・石田|未得《みとく》・荒木加友・高島玄札・半井卜養《なからいぼくよう》等やまた神野|忠知《ただとも》なども、これらに肩を並べる存在であったが、芭蕉が江戸へ出て来た寛文末年から延宝へかけては、もう五哲は没したり、高齢だったり、間もなく没したりして、むしろ五哲の次の世代の人々が世に出ていた。
 中では、岸本調和・神田|蝶々子《ちようちようし》・岡村|不卜《ふぼく》などが著名であった。調和は始め安静門で後に未得に師事した。寛文中期頃江戸に出て居り、芭蕉が江戸に出た当時は三十五、六歳で、脂の乗った働き盛りであった。蝶々子は貞室門で、芭蕉出府当時はやはり三十代であったと思われる。不卜《ふぼく》は未得門で、後の立羽|不角《ふかく》の師であり、元禄四年に没している。
 これらの宗匠は、元来はもちろん貞門系であるが、延宝年間に入ると、一様に談林化の方向に動き出す。古い貞門風を墨守していては門人が離れて行き、宗匠としての地位を守り切れないからである。そのことは、例えば延宝四年の自序のある蝶々子編『誹諧|当世《いまよう》男《おとこ》』の序文の一節に、「此比《このごろ》の句は一ぷうおかしくいひかまひたりと見ゆるはあれど、ふるき句どものやうに、いかにぞやことばの外に景気おぼゆるはなし」といいながら、しかし「若手の衆にまじはりて、点をかけんもおとなげなけれど、又ふるくさきとて人々にあなづられんも口惜かるべしなれば、老後のおもひ出是に過じ、御免あれと……」とあるのを以ても察せられる。
 つまり江戸の俳壇も、大坂の宗因等の動きに刺激されて、正に動こうとしていたのが、この寛文十二、三年の状態であった。芭蕉は江戸俳壇が談林の激しい潮流に巻きこまれる寸前に江戸に出て来たことになる。
 
どのグループにも出入り
 寛文十三年(この年延宝に改元)の春頃、田代松意《たしろしようい》は、神田|鍛冶《かじ》町の自宅に誹諧談林の結社を開き、同好の士を集め、世間からは飛体《とびてい》と呼ばれるような、自由奔放な作品を作って楽しんでいた。これも、貞門派の保守|退嬰《たいえい》にあきたりない空気が、貞門派の内部に鬱積していたことを示すものである。この結社に拠った人々は、田代松意・野口在色等を中心にして、池村雪柴・遠藤正知や、雅芸(後に雅計)・卜尺(後に離れる)等であるが、元来俳諧宗匠ではなく、いわば素人の町人たちである。江戸俳壇ではほとんど大した勢力もなかった人々である。
 それが、芭蕉が江戸へ出て来た翌年、まず結社を作り、ついで二年後の延宝三年(一六七五)には、『談林十百韻《だんりんとつぴやくいん》』を世に問うて、花々しく俳壇に登場し、一挙に全国俳壇の耳目を驚かすに至ったのである。関係者の一人に、芭蕉が生活上の頼りにしていた小沢卜尺がいたことを注意して置く必要があろう。
 更に第三の人々としては、上方、特に京都から江戸へ移って来た俳諧師たちがある。これらの人々の移住は、それぞれ個人的な理由もあるが、やはり新興都市の江戸に活躍の新天地を求めて来たと見るのが穏当である。ただしこれらの連中の江戸出府は、芭蕉の江戸出府とほぼ同時か、またはむしろその後と見るべきで、例えば重頼門の高野幽山などは、寛文末年から奥州|磐城平《いわきだいら》七万石の大名俳人内藤風虎に接近していたが、江戸定住は延宝二、三年以後と見られている。芭蕉が江戸出府後、幽山の執筆を勤めたことがあると伝えられるが、勤めたとしても極めて短期間のことであろう。その外、似春《じしゆん》(季吟門)・信章(後の山口素堂。季吟門)の出府も芭蕉と相前後している。
 これらの人々は前記内藤家の俳席に出入りし、その庇護を受けていた。延宝五年に成った風虎編『六百番発句合』の発句の作者は、この系統の人たちが中心であるが、元来貞門系の俳諧師であって、談林時代に入っても、田代松意等のような奇警な傾向は示していない。
 芭蕉が最も親しくしていたのは、この上方くだりの人々で、それは自分も上方くだりであり、また季吟系であったからであろう。内藤家へもこれらの人々と共に出入りしていた。しかし、江戸本来の俳諧師である不卜等とも親しく交際し、蝶々子・調和等とも相応の交際はしている。新興グループの人々とも、卜尺等を介して交際はあり、後に芭蕉が宗匠披露の立机興行を行なった際には、この派の野口在色等も後援をしたという(野口在色著『俳諧|解脱抄《げだつしよう》』)。
 江戸は新興都市であるだけに、京などに比べて在来の宗匠の数も少なく、従って談林派が大坂から捲き起こって来れば、素直にその影響を受けて、江戸俳壇全体が新風化して行った。だから、京・大坂に於けるような古風(貞門)、新風(談林)の激しい対立はなかったと見てよい。結社間の多少の対立はあったとしても、それは人間のいるところどこにでも起こる対立で、芭蕉は余り広くもない江戸俳壇の中で、まず頭角をあらわそうとして一所懸命であったと見てよかろう。
 
期待に反した『貝おほひ』の出版
 芭蕉が江戸へ出た寛文十二年の動静ははっきりしない。翌寛文十三年(延宝元年)の動静も不明である。ただし、上野から携えて来た『貝おほひ』の原稿が出版されたのは、出府後一、二年のうちと見たい。地方から出て来た無名の青年の本を出版してくれる本屋はいないから、自費出版であろう。しかし、上野に於ける『貝おほひ』の著述は、江戸出府の志とつながるものである以上、芭蕉としては是非ともこれを出版して世に問いたかったに相違ない。それが自分を江戸俳壇に登場させる機縁になると期待するところもあった。
 現存する『貝おほひ』の板本は「中野半兵衛開板」とあるが、外に「芝三田二丁目 中野半兵衛・同庄次郎開板」と奥付けのある板本のあったことが知られて居り、後者はおそらく後摺本であろうから、二度にわたって印行されたわけである。ということは、この書の出版が多少の反響を見たということを意味しようが、しかし当時の文献に『貝おほひ』に言及するものは皆無である。若い芭蕉が期待していた程の成功は得られなかったと見る外はない。
 寛文の末年から延宝の初年にかけて、俳壇は非常な速度で流動しつつあった。昨日新しかったものも、今日は古びてしまう。伊賀の上野で新機軸だと思った『貝おほひ』の内容も、都会の新しい風潮の中では、意外に垢《あか》抜けしていなかったという事情もあるのではないか。三、四年前に上方ではやった流行歌謡や流行語を種にした本を、江戸で出版しても、江戸の読者には大した感興を引き起こさないのも無理はない。今日私どもが『貝おほひ』を読んでも、ちっともおもしろくないといわざるをえない。
 芭蕉は地道に少しずつ俳壇に地歩を築くより外仕方がなかった。生活の道は、江戸へ出て八年目の延宝八年(三十七歳)、まだ上水道工事に関係していたことによってもわかる通り、江戸へ出ての数年は、俳諧以外の収入によったものであろう。水道工事の仕事は延宝五年頃から折り折り工事のある度に関係していたものであろう。後の本だが喜多村|信節《のぶよ》の『|〓庭《きんてい》雑録』という本には「桃青江戸に来りて、本船町の名主小沢太郎兵衛(卜尺と号す)が許にしばらく居しかば、日記など記させたるが多くありしとなり。其頃の事にてもあるにや、水道|普請《ふしん》にかゝれる事見えたり」と記し、延宝八年の「役所日記」の一節を引いている。
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