西山宗因を迎えた俳席へ
生活のことは兎も角、芭蕉は少しずつではあるが、江戸の俳壇で名を知られるに至った。また、作品の傾向は、貞門派から談林派に移って行った。
町医者や屋敷がたより駒迎《こまむかへ》
(延宝三年『五十番句合』・『句解参考』所引)
この句は多分延宝二年、すなわち芭蕉三十一歳秋の句と考えてよいであろう。「駒迎」は元来宮中に献納される馬を、逢坂《おうさか》の関まで出迎えることで、古来和歌などによく詠まれている素材である。ただし江戸時代にはすでに廃絶していたが、俳諧でも、和歌・連歌の伝統を受け継いで、秋の季題として時折り詠まれていた。いわば現実感のない、古典的な季題である。その伝統的・古典的な季題を用いて、町医者のところへ武家屋敷から馬でお迎えが来た、と換骨奪胎したところに、俳諧らしい戯画化とおかしみがある。形式的な季語である「駒迎」を、本当に馬の迎えが来たとしたところには、なお言語遊戯的なものがあるが、しかしよい患家から馬の迎えが来て、いそいそとしている医者の様子を戯画化している点に、詞のおかしみよりも内容的なおかしみを主にしている点がうかがわれ、そこに談林的方向への移行を看取し得よう。
翌延宝三年(三十二歳)になると、今や談林派の総帥として全国俳壇の注目を浴びている西山宗因が、大名俳人内藤風虎の招きを受けて江戸へ下って来た。芭蕉がこの宗因を迎えての連句百韻の俳席に連なることができたのは、彼が江戸の俳壇でようやく認められかけていたことを示すものである。もちろん宗因の東下が内藤家の招きによるもので、一座した人たちが、内藤家に出入りする人たちであったという理由もあろう。かの『談林十百韻《だんりんとつぴやくいん》』の松意・在色の連中などは、宗因と一座を希望したが容《い》れられず、僅かに宗因から発句を請い受けて「十百韻」を巻いたのである。
延宝三卯五月東武にて
いと涼しき大徳《だいとく》也けり法の水 宗因
軒《のきば》を宗《むね》と因《ちな》む蓮池 画《しようかく》
反橋《そりはし》のけしきに扉ひらき来て 幽山
石壇よりも夕日こぼるる 桃青
領境《りやうさかひ》松に残して一《ひと》時雨《しぐれ》 信章
雲路をわけし跡の山公事《くじ》 木也
或は曰《いはく》月は海から出《いづ》るとも 吟市
よみくせいかに渡る鴈《かり》がね 少才
四季もはや漸く早田《わさだ》刈ほして 似春
あの間この間に秋風ぞふく 筆
(以下略)
江戸本所大徳院(真言宗)で行なわれた百韻興行であった。発句に「大徳」と詠み込んであるのは、大徳院と高僧の意とを懸け、亭主である画《しようかく》に挨拶の意を籠めたもの。脇句の画は大徳院主で、「宗と因む」に客として宗因を迎えた亭主の挨拶の返しがある。幽山は前出した通り、内藤家出入りの重頼門の宗匠で、芭蕉の先輩。桃青は即ち芭蕉で、桃青という俳号が文献に出て来る最初である。信章は後の山口素堂で季吟門から出て江戸へ移った武士。吟市は画の弟子で、安住院の住職。似春も前出の通り、季吟門で江戸へ出て来た俳諧師。
全体の付け運びは、例えば同じ時期に行なわれた『談林十百韻』などに比べれば、はるかに穏やかで、芭蕉の付け句も他と特に変わるところはない。句数は宗因十五・画十・幽山十三・桃青七・信章九・木也九・吟市十二・少才八・似春十五・執筆一・又吟三というところで、桃青の付け句の少ないことはやはりまだ若輩だったからであろう。
談林の傾向をさらに進めた『江戸両吟集』
この連句は宗因を迎え、大徳院で住職を亭主にしての連句であるから、比較的穏やかな付け運びであるが、翌延宝四年(一六七六・三十三歳)の春、信章と両吟の百韻連句などになると、談林的傾向は一層顕著である。この連句は、天満宮奉納の二百韻で、三月には『江戸両吟集』と題して出版された。
(前略)
台所より下女のよびごゑ 桃青
通路《かよひぢ》の二階は少し遠けれど 信章
かしこは揚屋高砂《あげやたかさご》の松 桃青
とりなりを長柄《ながら》の橋もつくる也 信章
能因法師|若衆《わかしゆう》のとき 桃青
照《てり》つけて色の黒きや侘《わび》つらん 信章
(下略)
「通路」の句は、謡曲「松風」に「心づくしの秋風に海はすこし遠けれど……里離れたる通路の月より外は友もなし」を使ってもじったおかしみ。次の「かしこ」の句は謡曲「高砂」に「たがひに通ふ心づかひの妹背の道は遠からず、かしこは住吉《すみのえ》、ここは高砂」とあるのをもじったもの。揚屋はもちろん遊女を揚げて遊ぶ家。次の「とりなりを」の句は、容儀をつくろうことを「とりなりをつくる」というので、それに古今集の序文の「高砂すみの江の松もあひおひのやうにおぼえ……ながらのはしもつくるなりときく人は、うたにのみぞ心をなぐさめける」(謡曲「難波」にも「長柄の橋もつくるなり」の語がある)とあるのをもじったもの。長柄《ながら》の橋は摂津国長柄川(今の中津川)の橋。
次の句で能因法師が出て来るのは、能因法師が長柄の橋の鉋屑《かんなくず》を持っていた話(『袋草紙』)からで、それが「照つけて」となるのは、能因法師が「都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白川の関」の歌を京都で作り、旅行して作ったように見せかけるため、顔を日に焼いて披露したという話(『古今著聞集』)によったもの。謡曲や古典を踏んで、そこから普通にはとうてい想像されない卑俗なものを付け、読者の意表をつくおかしみが談林独特の手法であるとすれば、この両吟百韻には、正しく談林的傾向が顕著だといってよいであろう。
新しさでは江戸談林派に劣る
ただしこれを延宝三年の『江戸俳諧談林|十百韻《とつぴやくいん》』によって一挙に名声を博し、「西は長崎、東は仙台」(在色『暁眠記』)まで喧伝された、あの松意等のグループの作品と比べる時、芭蕉等の作はその斬新《ざんしん》さにおいて劣る点があることを否定できない。即ち右の桃青、信章両吟百韻の成った同年四月刊の『江戸談林三百韻』の一節を引いて比較してみよう。
高き屋にのぼりてみればつばきはき 正友
猫が何やらむさい事して 松意
雑巾《ざふきん》と女三《によさん》の宮の召《めさ》せられ 同
にえ湯となるはおほん涙か 正友
あゝこれは仏のときしふのり也 同
「高き屋」の句は、仁徳天皇の御製と伝える「高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」(『新古今集』)を踏んで、それを意表をついて「つばきはき」と落としたもの。「雑巾」の句は、源氏物語の高貴にして薄倖な女性である女三の宮に雑巾を持って来いといわせる滑稽で、これも全く読者の意表をつくもの。「あゝこれは」の句は煮て糊をつくる海藻の「布《ふ》海苔《のり》」と仏教の教理である「不如理」をかけたもの。いずれも厳粛なもの、まじめなものをまず持って来て、これに対して全く読者の想像外の卑俗なものを結び合わせて、読者に心理的落差を生ぜしめようとする。
その素材と感覚は生活に密着して居り、用語表現は自由奔放で、着想は極めて斬新《ざんしん》である。談林的方向としてこれを見るならば、芭蕉らを凌ぐこと数等といわねばなるまい。