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芭蕉 その人生と芸術11

时间: 2019-05-21    进入日语论坛
核心提示:めざましい作句活動初の帰郷と翌年の俳壇進出 この延宝四年(一六七六・三十三歳)の夏、芭蕉は久しぶりで帰郷した。 六月二十
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 めざましい作句活動
 
 
初の帰郷と翌年の俳壇進出
 この延宝四年(一六七六・三十三歳)の夏、芭蕉は久しぶりで帰郷した。
 六月二十日頃帰郷して七月二日には帰府の途についたのだから僅かな滞在だったが、その間、京都へ出たり、故郷の人々との俳席にも出たりしている(土芳『全伝』)。
 芭蕉がここで一旦帰郷したのは、俳諧師として成功し、錦を着て帰ったものではないが、しかしまた失意落胆の帰郷でもなさそうである。江戸に於ける生活に、ある程度の見通しが立ったので、甥の桃印《とういん》を引き取りかたがた帰省したものと見てよいであろう。
 甥の桃印は寛文元年に生まれ、五、六歳で父と死別し、母の手で育てられていた。この年延宝四年には十六歳である。詳しい事情は解らないが、芭蕉はこの不幸な少年を引き取り、江戸へ連れて行こうとして帰郷したもののようである。後に桃印は三十三歳で結核のため江戸で病死する。しかし、桃印を連れに戻ったということは、芭蕉の江戸での生活に、ある程度将来の見通しがついたことを意味する。
 即ち、翌延宝五年(一六七七・三十四歳)になると、芭蕉の俳壇的地位は、もうかなり安定したものとなって来たようである(春には宗匠として立机したかとも思われるが、翌延宝六年とする方が無難であろう)。そして、その年京都から江戸へ下って来た信徳を迎え、信章と三人で三吟百韻を巻いている(この百韻は、翌春作った百韻二巻と合わせ『江戸三吟』と題して、翌延宝六年三月中旬京都で出版された)。信徳は、京都の梅盛門で、芭蕉より十一歳の年長であり、すでに延宝三年に『信徳十百韻』を著わし、談林派の雄であった。この百韻の芭蕉の発句は「あら何ともなやきのふは過《すぎ》て河豚《フクト》汁 桃青」で、謡曲のきまり文句を踏んで、談林らしい奇抜さがある。
 またこの年閏十二月五日に成った内藤風虎編(任口・季吟判)の『六百番俳諧発句合』にも、「猫の妻へつゐの崩《くづれ》よりかよひけり」以下二十句が収録されている。「猫の妻」の句は伊勢物語第五段にある、男が「築地《ついぢ》のくづれより通ひけり」という文句を取って、猫の妻に置き換えたところが、談林らしい手法で、伊勢物語によった点は貞門派同様古典のもじりだが、それを猫の妻が通ったとしたところに、人の意表をつく、いわゆる無心所著《むしんしよじやく》のおかしみがある。
 
俳諧宗匠となる
 こうして次第に江戸俳壇に地歩を占めた芭蕉は、翌延宝六年春三十五歳で、俳諧宗匠として立机し、万句の興行を行なった。すでにこの年の正月には、歳旦帳を著わして門人たちに配っている(梅人『桃青伝』)。また其角は延宝初年に入門しているし、杉風、嵐蘭、嵐雪等有力な門人がいる以上、仮に宗匠の披露目がすんでいないとしても、宗匠並みの扱いを受けていたと見てよい。
 この年江戸で刊行された主要俳書には、すべて相当数の芭蕉の句が収録されている。二葉子《じようし》編『江戸|通町《とおりちよう》』(七月下旬刊)・言水《ごんすい》編『江戸|新道《しんみち》』(八月上旬刊)・不卜《ふぼく》編『江戸|広小路《ひろこうじ》』(九月?)等である。京都から出府して来た青木|春澄《はるずみ》を迎えて、似春《じしゆん》と三吟歌仙三巻を巻いたり、これも京都から来ていた信徳《しんとく》に千春《ちはる》を加えて三吟歌仙を巻く(十二月)。七月には蝶々子に招かれて、芭蕉の発句で四吟歌仙を巻き、秋にも杉風と両吟歌仙を巻くなど、作句活動は極めて活発である。
 その上、冬十月には岸本調和系の人たちの「十八番発句合」に、頼まれて判詞を書き、跋文を添えて、「坐興庵桃青」と署名し、「素宣《そせん》」の印を押している。他派の人々から発句合わせの判者を頼まれる程に芭蕉の俳壇的地位は安定して来たのである。
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