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芭蕉 その人生と芸術12

时间: 2019-05-21    进入日语论坛
核心提示:明るい日々明るい日々・明るい作品 その作品傾向も、談林派の新進宗匠にふさわしい、明るく、才気の溢れたもので、この年の春の
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 明るい日々
 
 
明るい日々・明るい作品
 その作品傾向も、談林派の新進宗匠にふさわしい、明るく、才気の溢れたもので、この年の春の作と考えられる次の句などは、待望の宗匠立机前後の明るい心境を想像させるものがある。
 
  か|び《〈濁ママ〉》たんもつく|ば《〈濁ママ〉》ゝせけり君が春  桃青
 
(『江戸通町』)
 
「かびたん」は当時の半濁音記号の不完全さによるもので、おそらくカピタンと発音したものであろう。カピタン(甲比丹・甲泌丹)は、長崎のオランダ商館長で、毎年正月に江戸へ出府し、献上品を持って幕府に挨拶した。カピタンという異国人を素材にし、カピタンまでも平伏させた君が春よと、泰平の春を謳歌したところに、談林俳諧らしい着想の新奇さがあり、また作者の心境の一端もうかがわれるというものである。
 
雨の日や世間の秋を堺町《さかひちやう》      桃青
 
(『江戸広小路』)
 
 堺町は当時の江戸の芝届町である。雨の降る日、殊に秋雨のそぼ降る日は淋しいものだが、そういう世間の秋とは正反対に、芝居小屋や芝居茶屋の続くあたりは、明るく賑やかで、人の心を惹きつける零囲気がある。おそらくは芭蕉も、時に堺町のあたりを歩いたり、芝居小屋をのぞいたりしたことであろう(芭蕉が芝居見物をしていることは、元禄元年、元禄四年などが知られている)。若い新進の俳諧宗匠として、当然あってよいことである。
 連句を見ても、「実《げ》にや月間口千金の通り町」の桃青の発句による同年七月の歌仙から一節を引けば、
 
又|孕《はら》ませて蛙子《かへるご》ぞなく    紀子
鶯《うぐひす》の宿《やど》が金子《きんす》をねだるらむ   桃青
 
という調子で、前句の「蛙子」はお玉|杓子《じやくし》である。お玉杓子のように子供がいっぱいいて泣いているという前句に対し、芭蕉の付け句は、鶯のような娘が妊娠させられ、お玉杓子(子供)を生んだので、それを種に娘の請人宿《うけにんやど》の親方が金を無心に来るという意である。
 
恋|訴詔《そしよう》(訟)ふしんながらも指金《さしあぐ》ル 春澄
告《つげ》にまかせて口説《クドキ》申候《もしそろ》      桃青
 
 似春・春澄・桃青の三吟歌仙の一節である。前句は謡曲「鸚鵡小町《おうむこまち》」に「ふしんながらもさしあげて」という文句があるのを踏んだもので、「ふしん」を「無心」に利かせ、無心のことながら、わが恋の願いを聞き届けてくれよと相手に訴え出たというのである。芭蕉の付け句の「告《つげ》にまかせて」というのは裁判の折りの慣用語で、訴状に従っての意である。前句の訴訟に対して、「告にまかせて」と応じ、恋の句であるので「口説申候」と訴状の文句のように応じたところ、誠に巧みな応接というべきである。
 長い部屋住みの境遇から、俳諧宗匠の道を求めて江戸へ出たのが、二十九歳の春であった。それから六年、その間の道は決して平坦ではなかった。「空手にして金《こがね》なき」青年、それも伊賀の山の中から出て来た、大した伝手《つて》も後援者もない青年が、いきなり都会へ出て来て、自分の力で運命を切り開いて、漸くここまで来たのである。芭蕉の胸中には、胸ふくらむ思いがあったことだろう。苦労して目的を遂げた者のみが知る、深い喜びがあったに相違ない。もちろん生活が急に楽《らく》になったわけではない。まだ小沢卜尺の世話で水道工事の帳面付けを手伝ったりしている。しかしこうやって行けば、次第に道が開けるだろうという未来がある。しばらくは芭蕉の毎日は明るい日々であったといってよいであろう。
 
若い日の寿貞との関係
 もし想像を許されるなら、芭蕉の晩年になって、寿貞《じゆてい》という尼号で芭蕉の身辺に登場して来る女性との関係は、この前後の二、三年にあったと見るのはどうであろうか。この私の想像は、すでに説かれている大内初夫氏などの説(「芭蕉と寿貞・次郎兵衛」『語文研究』四・五)にも近いようだが、私は、延宝四年の夏、芭蕉がその甥桃印を故郷から連れ帰った時頃から、寿貞は芭蕉の内妻として同居していてもよいような気がする。これは証拠のないことだから、想像以上のものではないが、もう少し譲歩しても、芭蕉が宗匠として立机し、貧しいながら多少の生活の見込みが立った延宝五、六年の頃には、家内に家事を助ける婦人がいたと見る方が自然ではあるまいか。
 芭蕉の直門であり、高弟の一人でもあった野坡《やば》が「寿貞は翁の若き時の妾にて、とく尼になりしなり」と、門人の風律《ふうりつ》に語ったことが、風律の『小ばなし』に載っている。それは、著名な話で、この記事の信憑《しんぴよう》性をめぐって幾多の議論が出ているが、野坡の談の「翁の若き時」をいつかと考えてみると、江戸に出て宗匠になり、気持ちも安定し、生活の見込みもついたこの前後が最もふさわしいような気がする。
 ただし、そうなると、寿貞の子の次郎兵衛が、誰の子で、いつ頃生まれたか、という問題が出て来る。ここでは、その議論を展開する適当な場ではないから略説にとどめるが、まず次郎兵衛は芭蕉の子ではなく、寿貞が他の男との間に設けた子であろうということ。外に、まさ・ふうの女の子も同様。そして、次郎兵衛の生年については次のことを考える必要がある。元禄七年、芭蕉が最後の西上の旅に彼を少年としていたわりつつ伴い、しかし芭蕉が京都にいる頃に江戸の寿貞の死のしらせがあると、芭蕉は少年の次郎兵衛をひとりで江戸に帰らせ、更にまた西上させている。
 してみると、この時の次郎兵衛の年齢は、まず十三歳以下ということはあるまい。といって、十八歳なら当時としては結婚してもおかしくない大人の年である。私は後述するように、芭蕉が深川の草庵に入った延宝八年(芭蕉三十七歳)の冬までには、寿貞は芭蕉の許を去ったと考える。もし寿貞が延宝八年に芭蕉の許を去り、翌年に他の男との間に次郎兵衛を生んだとすれば、次郎兵衛は十五歳で芭蕉の最後の旅の供に出たことになる。
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