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芭蕉 その人生と芸術13

时间: 2019-05-21    进入日语论坛
核心提示:新進の俳諧宗匠漢詩文をもじり、新進宗匠の面目躍如 明けて延宝七年、三十六歳の春には、阿蘭陀《おらんだ》も花に来にけり馬に
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 新進の俳諧宗匠
 
漢詩文をもじり、新進宗匠の面目躍如
 明けて延宝七年、三十六歳の春には、
 
阿蘭陀《おらんだ》も花に来にけり馬に鞍《くら》   桃青
 
(『江戸蛇之鮓』)
 
などと、前年の「かびたん」の句同様、明るい春を謳歌し、芭蕉は新進の俳諧宗匠として、江戸俳壇の注目を浴びていた。この年刊行された(または編集された)俳書の多くに、桃青(芭蕉)の名が見られることを以てしても、そのことは察せられよう。即ち、千春編『かり舞台』・言水編『江戸蛇之鮓』・宗臣編『詞林金玉集』(未刊)・蝶々子編『玉手箱』・西治編『二葉《じよう》集』・才丸編『坂東《ばんどう》太郎』等には、それぞれ芭蕉の作品を請い受けて収録しているのである。
 連句の会もしばしば行なわれたことであろう。ここには、まず似春との両吟百韻(脇句のみ四友)から一節を引いてみよう。
 
御供にはなまぐさものゝ小殿原《ことのばら》  似春
つゞく兵《つはもの》鱠《なます》大根       桃青
 
 前句の「小殿原」は、お供に続く若い家来たちの意に、正月のお節《せち》料理につかう「ごまめ」の異名を「小殿原」というので、掛け詞に使ったもの。芭蕉の付け句は、同じく正月の料理を並べて付けた。
 また似春・四友の上方行きを送る両吟百韻(四友は脇句のみ)の一節を引けば、
 
又や来る酒屋門前の物もらひ   似春
南朝四百八十|目米《めまい》       桃青
 
 芭蕉の付け句は、前句の「物もらい」を乞食と眼病の麦粒腫《ばくりゆうしゆ》とに掛けて取り、それに杜牧の「江南春」の詩の一節「水村山郭酒旗風、南朝四百八十寺」をもじったもの。米一石は当時銀で四十匁位だが、飢饉でその米が四百八十匁もして、酒屋の門前に乞食が次々と来るさまに取ったもの。「匁」を「目」としたのは、「物もらひ」(麦粒腫)の縁語。
 
冷食《ひやめし》を鬼|一口《ひとくち》に喰《くひ》てげり     似春
是生滅法生姜梅漬《ぜしやうめつぽふしやうがうめづけ》       桃青
 
 前句は、伊勢物語の芥川《あくたがわ》の段の「鬼はや一口にくひてけり」をもじったもの。芭蕉の付け句は、鬼に喰われたので仏語の「諸行無常、寂滅為楽、是生滅法、生滅々已」を持ち出し、「冷食を」「喰てげり」だから「生姜梅漬」と対させたもの。
 いずれも談林俳諧らしい奇想天外の趣があり、新進俳諧宗匠の面目|躍如《やくじよ》たるものがある。殊に、漢詩・漢語のもじりが多くなり、いわゆる漢詩漢語調の徴候が見えることを注意して置く必要があろう。
 
地位確立して転機に立つ
 翌延宝八年には、芭蕉は三十七歳になった。春には、
 
於《アヽ》春《はるはる》大ナル哉《カナ》春と云々《うんぬん》   桃青
 
(『向の岡』)
 
というような、相変わらず談林派らしい明るい句を詠んだ。この句は、|米〓《べいふつ》の「孔子賛」のもじりで、「孔子、孔子、大哉孔子、孔子以前既無二孔子一、孔子以後更無二孔子一、孔子、孔子、大哉孔子」を踏んだものであり、「云々」は、漢文注釈によく用いられる慣用句である。前年にすでに見られた漢詩漢語調が引き続き踏襲されていることがわかるが、これは芭蕉のみならず、談林派の一部で、延宝末年頃から天和にかけて、かなり流行した手法である。日本の古典のもじりが使い古されて、新鮮さを失って来たところから工夫された新手法といってもよいであろう。
 またこの年四月には、芭蕉の門人たちの連句集『桃青門弟独吟二十歌仙』が出版された。標題に、「桃青門弟」と角書《つのがき》をつけ、二十一人(追加一人を含めて)の門人の連句を集めて、あえて世に問うというところに、蕉門の人々の意気込みがうかがわれる。四月の出版であるから、おそらく、前年の延宝七年から準備が進められていたものであろう。ここにも、宗匠としての芭蕉の俳壇的地位の確立を見ることができる。
 八月には芭蕉の評語を添えた、其角の自句合『俳諧合田舎』(いわゆる「田舎《いなかの》句合《くあわせ》」)が刊行され、九月には、これも芭蕉の判詞を得た、杉風の自句合『俳諧合常盤屋』(いわゆる「常盤《ときわ》屋《やの》句合《くあわせ》」)が刊行されるなど、蕉門の活躍は目ざましいものがあり、それは即ちまた芭蕉の俳壇的地位の確立につながって行くものであった。「田舎句合」の嵐亭治助《らんていじすけ》(後の嵐雪)の序文に「桃翁(芭蕉のこと。すでに翁と呼ばれる位、老成の風があった)栩々斎《くくさい》にゐまして、為に俳諧無尽経を説く。東坡《とうば》が風情、杜子《とし》がしゃれ、山谷《さんこく》が気色より初めて、その体幽になどらか也」とあるのは、芭蕉が荘子や、蘇東坡・杜甫・黄山谷等に関心を持ち始めていることを示している。
 ところがしかし、この年の後半から、芭蕉の作品には微妙な変化が現われて来る。
 
蜘《くも》何と音《ね》をなにと鳴《なく》秋の風桃青
 
(『向の岡』)
夜ル竊《ひそか》ニ虫は月下の栗を穿ッ     桃青
 
(『東日記』)
枯枝に烏のとまりたるや秋の暮   桃青
 
(『東日記』)
愚《ぐ》案ずるに冥途《めいど》もかくや秋の暮   桃青
 
(『向の岡』)
いづく霽傘《しぐれカサ》を手にさげて帰る僧   桃青
 
(『東日記』)
 
 談林調ではあるが、従来の明るい、洒落れたおかしみはかげを潜めて、秘かな暗中模索の行なわれていることが解るであろう。
 実は談林俳諧全体が、延宝の末年から天和初年にかけて、転機に立たされていたのである。
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