談林俳諧の急速な凋落
貞門俳諧の陳腐さに対し、清新な着想と自由奔放な表現によって、談林派は俳壇を席巻《せつけん》した。正に文字通り席巻であった。貞門派からさまざまの抵抗はあったが、結局俳壇全体が新風の勢いに呑まれたといっても過言ではない。だがそれだけに談林派は、宿命的に常に新味を求めなければならない性格を内在させていた。常に読者の意表をつく新奇さに談林の存在理由がある。無心所著《むしんしよじやく》のおかしみは、同じ趣向では読者を満足させない。常に意表をつき続けるためには、新しい趣向が次々と考案されなければならない。しかし古典・故事のもじりもだんだん種が尽きて来る。謡曲を盛んに使ってみたが、それも頻繁になれば、やはりまたかということになる。中国の古典のもじりも乱用されれば、倦きが来る。こうして談林俳諧は十年足らずでマンネリズムに陥ってしまった。
延宝末年から天和初年へかけて談林俳諧は急速に凋落《ちようらく》する。それは実は俳壇全体の危機であった。芭蕉もまた例外ではない。このように談林俳諧全体の行きづまりの問題もあったが、一方また、芭蕉自身の内面の問題も考えないわけには行かない。
粒々辛苦して、芭蕉は俳諧の宗匠の地位を得た。門人もでき、どうやら生活のめどもついた。目的を達して、しばらくは明るい歳月が続いた。しかし、浮き浮きとした宗匠生活の興奮がやがて醒めると、自己の芸術や人生について、静かに考えてみないわけには行かなかったであろう。三十五歳の春に宗匠の披露目をしてから二年有余、俳壇的地位の確立と比例して、芭蕉の心中に、沈静と反省とが、一種の失意と、失意の中からの新たな模索とが始まった。
宗匠の地位・ことばの遊戯への反省
談林派一方の旗頭である岡西|惟中《いちゆう》門で、関西から江戸へ出て来た脩竹堂《しゆうちくどう》が、延宝六年八月に『俳諧|或問《わくもん》』という書を著わしている。書中、惟中の俳諧|寓言《ぐうげん》説を祖述するところが多いが、その序文に「予《わ》れもと草莽《さうまう》の家に長《ひととな》って、詩歌の奥深き林に游《あそ》ばず。唯俳諧を好んで群《ぐん》を郷里の小児と共にす」と述べ、さらに「扨《さて》、俳諧の二字は、たはぶれかたるとよみたれば、月をうらやみ、花にめで、折ふしの興にまかせて、ひゃうふっと云ひ出す言葉の、みづからも腹をかゝへ、人の耳目をよろこばしめて、衆と共に楽むを俳諧の骨子とす」と述べている。それは当時の談林俳人たちの俳諧観を示して余りがある。
芭蕉もまた、そのような談林俳諧を作り、そのような談林俳人たちと交わりを共にして、「衆と共に楽」しんでいた。蕉門の門人たちの作品にしても、その点は同様である。『桃青門弟二十歌仙』の巻頭の杉風の連句の冒頭数句を引いてみよう。
誰かは待《まつ》蠅は来《きた》りて郭公《ほととぎす》
あほう有《あり》ける世中《よのなか》の夏
夕涼金ひろはんと立|出《いで》て
牛|尿《クソ》つかむ月の下道
秋の空西も東もしらぬ子が
(下略)
談林的遊びの俳諧であることは明瞭である。脩竹堂のことばを借りれば「詩歌の奥深き林に游」ぶのではなく、「群《ぐん》を郷里の小児と共にす」る程の遊戯であり、それも「折ふしの興にまかせて、ひゃうふっと云ひ出す言葉」である。宗匠稼業というのは、平生実業に従う人々が、実業の余暇に「たはぶれかたる」相手をする職業でしかない。だから「みづからも腹をかゝへ、人の耳目をよろこばしめ」るものでなければならないのだ。俳諧は、士大夫の文学ではなく、小児の玩弄でしかない。それを弄《もてあそ》ぶ旦那衆のお相手をするのが俳諧宗匠である。
経済的にも生活はらくではない。門人といったところで、ご機嫌を損えば明日にも離れてしまうであろう。その門人たちの合力がなければ生活は成り立たない。憧れた宗匠の地位について、気がついてみたら、それは根の無い浮き草のような、はかない地位だった。芭蕉は宗匠生活のむなしさを今更ながら感じた。その苦渋が心にしみる。夢は破れた。
しかも、談林俳諧そのものも行きづまり、今までおもしろいと考えて苦心していた作品も、吹けば飛ぶようなことばの遊びでしかないことに気がついて来た。それが、延宝八年、芭蕉三十七歳後半の心境ではなかったか。