実利を捨て人間性の純粋に従う
新しい出発を考えなければならない。芭蕉は、荘子や杜甫や蘇東坡や黄山谷や、その外中国の詩人・文人たちの作品を読んだ。もちろん、今始めて読むわけではないが、改めて読めばまた心に泌みるものがある。それは、ことばの遊戯ではなく、作者の実感を詠んでいる。貞門俳諧も、談林俳諧も、人間不在の文学だった。自分の心を詠まなければならない。中国の詩人たちによって芭蕉はこのことを学んだ。更にまた、荘子を読むことによって、芭蕉は、実利を去って人間性の純粋に従うことを学んだ。富や栄誉を求める現実世界の確執から引退を考えるに至った背景には、このような荘子の影響を無視できないであろう。
こうして芭蕉はこの年の冬、隅田川の向こう側の深川の地に居を移したのである。それまで芭蕉は日本橋の本船町に住んでいた。深川は、当時、市中を去った辺鄙の地で、水が悪いので飲料水を買い求めなければならないような土地であった。宗匠として活発な活動をするためには、従来通り日本橋のような便利な地に住むべきである。その方が自分も出やすいし、門人たちの出入りにも便利である。便利な日本橋本船町の住居から、あえて隅田川の向こうに移り住もうと決心した胸中には、いわゆる宗匠生活を断念する決意があったと見なければならない。
門人をふやし、多くの俳席を持ち、「みづからも腹をかゝへ、人の耳目をよろこばしめて、衆と共に楽」しみ、一門の句集を刊行し、人気を得て華やかに門戸を張ることが宗匠生活の目標であろうが、芭蕉はここにそういう目標を捨てたのだ。
だから、深川への転居は、生活の安定を意味するものではなく、むしろ生活の危険を覚悟して、宗匠生活から「退隠」したのである。といっても、実際には一挙に宗匠的生活を捨て切れたわけではないであろう。しかし覚悟はそこにあったと見てもよい。芭蕉自身がそのことを次のように書いている。
こゝのとせの春秋、市中に住侘《すみわび》て、居を深川のほとりに移す。長安は古来名利の地、空手《くうしゆ》にして金《こがね》なきものは行路難し、と云《いひ》けむ人の、かしこく覚へ侍るは、この身のとぼしき故にや。
しばの戸にちやをこの葉かくあらし哉
ばせを
(『続深川集』)
人間不在から人間のいる文学へ
市中に住みわびたから、深川に退隠したのである。隠者になろうと決意したのだ。だから、
富家ハ喰ラヒ二肌肉ヲ一、丈夫ハ喫ス二菜根ヲ一、予ハ乏し
雪の朝独り干鮭《からさけ》を噛《カミ》得タリ 桃青
(『東日記』)
とも詠む。この句は深川移転当時の作と考えられる。金持ちたちはうまい肉を食い、将来を夢みている野心多き青年たちは菜根を食べて意気|軒昂《けんこう》たるものがあるが、自分は金もなく野心もなくただ乏しいだけで、寒い雪の朝、固い鮭の干物を囓るのみだというのだが、そこには暗澹たる心境を隠者的ダンディズムによって支えようとする、いわば一種の気負いがある。自分は、いわば第三の道を行くのだという、壮志がある。
深川へ移るとなれば、寿貞とも別れたであろう。甥の桃印はもう二十歳だからどこかへ勤めに出したのであろう。延宝九年・三十八歳の正月を、ひとり草庵に迎えた芭蕉は、次の句を短冊に書いた
元朝心感有
餅を夢に折結《おりむすぶ》歯朶《しだ》の草枕 華桃青
(真蹟短冊)
句の大意は、どこの家も元旦は鏡餅を床の間に飾り、家族ともども正月を祝うのだろうが、自分は草庵にひとり旅寝同然の生活であるから、鏡餅の下に敷く羊歯《しだ》の葉を折って旅寝の枕とし、餅を夢に見るのみである——というようなところであろう。露骨に自分の境涯を歎いていて、発句としては佳句ではないが、前年の春の吟「於《アヽ》春々大ナル哉《カナ》春と云々」などに比べて明らかに一線を劃するものがある。古人の作品に頼る言語遊戯ではなく、自分の胸中のものを作品に盛り込もうとしている。
ここには、はっきり作者が居り、作者の思いが述べられている。人間不在の文学から、人間の居る文学へ移ろうとしている。この句の別の真蹟に「思ひ立つ事有る年」と前書したものがあった由だが(『句選年考』)、この年の正月は芭蕉にとって万感こもごも至る思いであったに相違ない。世間通俗の宗匠生活を続けようとすれば道は安易である。やさしい妻、暖かい家庭、小市民的幸福。掴もうとすれば、それは掴めるのだ。しかしそれでは真の芸術は得られない。宗匠生活を捨てて、純粋に生きようとすれば、きびしい人生を覚悟しなければならない。どちらを選ぶのも芭蕉の自由であった。だが両方を取ることは不可能である。両方は取れないところに人生の厳粛さがある。芭蕉はあえて後者の道を選んだ。元旦にあたって感慨があるのはまた当然である。
ただし作者が自分の胸中のものを俳句作品に詠みこむ手法が、まだ確立されていないこの時期のことであるから、この作品も結局は未完成の感を免れない。
当分の間、芭蕉は中国詩人のパターンに習うことによって、その方法の確立を探り求めるのである。
宗匠生活への興味をはっきり失う
深川大工町臨川庵に仏頂和尚を訪い、禅を修したのも、深川移転後間もないことと考えられるが、一介の俳諧師の身で禅に志すなどは異例のことである。芭蕉が新しい転機を求めて暗中模索している様は、ここにもうかがわれる。
この年の夏から冬にかけての句文を二、三掲げてみる。
夕《ゆふがほ》の白ク夜ルの後架《こうか》に帋燭《しそく》とりて 芭蕉
(『武蔵曲』)
茅舎ノ感
芭蕉|野分《のわき》して盥《たらひ》に雨を聞夜哉《きくよかな》 同
(同右)
泊船堂主華桃青《はくせんだうしゆくわたうせい》
窓含西嶺千秋雪
門泊東海万里船
我其句を職《しつ》(識)て、其心を見ず。その侘《わび》をはかりて、其楽をしらず。唯、老杜《らうと》にまされる物は、独《ひとり》、多病のみ。閑素茅舎《かんそばうしや》の芭蕉にかくれて、自《みづから》、乞食《こつじき》の翁《おきな》とよぶ。
櫓声波を打てはらわた氷る夜や涙
貧山の釜霜に鳴声寒シ
買水
氷にがく偃鼠《えんそ》が咽《のど》をうるほせり
歳暮
暮々《くれくれ》てもちを木玉《こだま》の侘寝哉
(小林氏蔵真蹟懐紙)
寒夜辞
深川三またのほとりに草庵を侘《わび》て、遠くは士峯の雪をのぞみ、ちかくは万里の船をうかぶ。あさぼらけ漕行《こぎゆく》船のあとのしら浪《なみ》に、芦《あし》の枯葉の夢とふく風もやゝ暮過《くれすぐ》るほど、月に坐しては空《むなし》き樽をかこち、枕によりては薄きふすまを愁《うれ》ふ。
艪《ろ》の声波を打て腸《はらわた》氷る夜や涙
(『夢三年』)
これらの句文を読めば、芭蕉がもう談林的宗匠の生活に興味を失っていることは瞭然《りようぜん》であろう。
みずから進んで世間的敗北の道へ
深川の草庵を、芭蕉ははじめ「泊船堂」と号した。杜甫が成都で詠んだ「絶句四首」の中の「門ニハ泊ス東呉万里ノ船」から取ったもので、そこは隅田川の三つ股の近くで、夜になると川船の櫓の音がはっきりと聞こえて来た。独り物思いに耽っていると孤独悲愁の念が胸に満ち、寒気は腸も氷るばかりである。内心の思いをこのような表現で詠むことを、芭蕉は中国の詩人たちに学んだと思われる。だから多少そこに借り着の感がないとはいえない。身ぶりがないとはいえない。しかし、そういう隠者的、文人的ダンディズムをとることによって、必死になって世の俗流に抵抗しているのであり、現実生活の挫折を支えているのである。
世間からの退隠は、世間的にいえば現実生活に敗北したことである。だが、みずから進んで
敗北の道を選んだのは、敗北に代わる代償を得ようとしたからに相違ない。代償とは何か。世俗を去ることによって、精神の文学を樹立することである。通俗的宗匠生活を捨てることによって、真の隠者となり、そのことによって純粋な人間性を回復することである。そこに文学と人間との一体化が可能になり、高雅な文学が生まれる。そのことを芭蕉はまだはっきりとは自覚していない。しかし、中国の詩人たちのパターンに習うことによって、世俗的希望の崩壊に耐え、現実厭離の支えにしようとしたのである。現実世界からは退隠するが、そのことによって純粋な芸術家になり、芸術だけに身を献げようとする。従って名利は遠ざけるが、文学に対してはかえって積極的になり、かえって高いものを求める。
それが、これから後半生の芭蕉の人生信条である。その人生に対する信条が、文学の上でいかに具体化されて行くか。文学は理論ではないから、いかに理想を掲げ、信条を訴えても、それが作品として具象化されるには、おのずから水の低きにつくが如き熟成の経過を要する。われわれも、ゆっくりと芭蕉の変化熟成を見守ることにしよう。