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芭蕉 その人生と芸術16

时间: 2019-05-21    进入日语论坛
核心提示:一切を俳諧にささげる漢詩の手法に学んで新生面を工夫 延宝末年から天和初年へかけての談林俳諧の行きづまりが背景にあったとは
(单词翻译:双击或拖选)
 一切を俳諧にささげる
 
漢詩の手法に学んで新生面を工夫
 延宝末年から天和初年へかけての談林俳諧の行きづまりが背景にあったとはいえ、芭蕉の転回は、芭蕉個人の意志と努力と天才によってなされた。転回が進行するにつれて、世間はこの独自の天才に驚異と讃仰の目を向け始めた。しかしまた、去って行く門人もいた。先に述べた『桃青門弟二十歌仙』の二十一人の門人中、後年迄芭蕉と歩みを共にするものは半数に満たない。その代わり、一方では質のよい門人が集まって来た。甲州の秋元但馬守喬朝の国家老で、千二百石を食《は》む高山|麋塒《びじ》なども、その一人であった。
 麋塒は天和二年(一六八二)(芭蕉が深川の草庵へ入庵した翌々年)八月十四日に、芭蕉庵へ来て月見の俳諧興行をしている。芭蕉の草庵は、前記の通り、始め「泊船堂」と呼ばれていたが、後に門人|李下《りか》によって芭蕉が植えられてから、やがて自他ともに芭蕉庵と呼ぶようになっていた。
 これより先、芭蕉は、麋塒宛ての手紙の中で、京・大坂・江戸共に俳諧が古くなって、みんな同じような句ばかり作っていると指摘し、宗匠たちも三、四年以前の談林風の俳諧をまだ作っていて古臭いと批判している。そうして、五・七・五の定型の外に出る「字余り」の形でも「句のひゞき」がよければよいのだと、教えている。延宝末年から天和初年にかけて、芭蕉の発句に「字余り」の句の多いことは、前に引いた例でもわかるであろうが、更に一例を挙げれば、
 
憶フ二老杜ヲ一
髭《ひげ》風ヲ吹《ふい》て暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ   芭蕉
 
(『虚栗《みなしぐり》』)
 
などの如きである。老杜は杜甫のことで、杜甫の詩に「ツキレ藜ヲ嘆ズルレ世ヲ者ハ誰ガ子ゾ、泣血迸レシメテ空ニ回ラス二白頭ヲ一(あかざを杖つき世を嘆ずる者は誰が子ぞ、泣血《きうけつ》空にほとばらしめて白頭をめぐらす)」とあるのを念頭に置き、「風髭を吹いて」というべきところを、わざと逆置して「髭風ヲ吹て」といったもの。この逆置の手法は漢詩の倒装法という手法で、天和二年頃の芭蕉が、漢詩の手法によって新生面を打開しようと工夫しているさまがわかる。
 
夜着は重し呉天《ごてん》に雪を見るあらん  芭蕉
 
(『虚栗』)
 
なども同年頃の漢詩調の字余り句である。字余りの句ではないが、
 
椹《クハノミ》や花なき蝶《てふ》の世すて酒      芭蕉
 
(『虚栗』)
 
 も、天和二年の作と見て置きたい。春の花の盛りを過ぎた初夏の頃、花がないので桑の実にとまって汁を吸っている蝶のさまを、いわば世捨て人が世を侘《わ》びて酒を飲んでいるようなものだと、たとえて詠んだのである。このたとえ方には、まだ談林時代の余臭が残っているが、どこかに世に背《そむ》いた自分を蝶に擬して省《かえり》みているところがある。後年のような円熟した隠者の心境ではないが、そこがかえって天和二年らしいところである。
 なおつけ加えていうと、「芭蕉」という号が文献に出て来るのは、この年三月上旬刊の『武蔵《むさし》曲《ぶり》』という本が最初である。おそらく前年(延宝九年九月二十九日に天和と改元)の天和元年の秋のころからであろうか。その外、初期の庵号には夭々軒《ようようけん》・坐興庵・栩々斎《くくさい》・華桃園などが用いられたことをいい添えて置こう。
 ところで、この天和二年十二月二十八日に、駒込の大円寺から出火して江戸に大火が起こり、芭蕉庵も類焼した。年があけてから、芭蕉は甲州(山梨県)へ赴《おもむ》いた。前述の高山|麋塒《びじ》を頼っていったものと思われる。
 
甲州からの帰京と芭蕉庵の再建
 天和三年(一六八三・四十歳)の正月吟はない。焼け出されてそれどころではなかった。本郷・下谷・神田・日本橋・浅草・本所・深川と広範囲に及ぶ大火であったから、芭蕉の門人で火災にあったものも多かったであろうし、焼けなかった人々も、親戚・知人の救難が先で、俳諧どころではなかったに相違ない。俳諧は、世間の人にとっては、現実生活が安穏無事の時に楽しむもので、一朝有事の際には、二の次にされるのが当然である。芭蕉が「甲斐の山ざとにひきうつり、さま苦労」(書簡)したと、後に書いているのも、またやむをえないことであった。
 
夏馬《かば》の遅行《ちかう》我を絵に見る心かな(初案)
 
(『一葉集』連句篇)
 
は、この甲州|流寓《るぐう》の間の作である。後にこの句は、「馬ぼく我をゑに見る夏野哉 芭蕉翁」(『水の友』)と直された。
 甲州から、五月に江戸に帰り、其角《きかく》編『虚栗《みなしぐり》』の跋文を書いた。李白・杜甫・寒山・西行・白楽天など、和漢の古人の名を挙げて、古人にならう気持ちを述べたもので、なお中国の詩人の強い影響下にあることが知られる。
 六月二十日に母が郷里で没したが、芭蕉は葬儀に戻らなかった。戻れなかったというべきか。火災の後、なお生活が安定していなかったせいであろう。
 九月になってようやく芭蕉庵再興の話が出、友人の素堂が「芭蕉庵再|建勧進簿《くわんじんぼ》」を書いて門人間に廻し、五十二人(杉風・卜尺等の名前は見えない)の知友・門人等によって、総計百四十匁(銀)あまりが集まり(もちろん当時といえどもそんな金額で家の建つはずはないから、外に杉風・卜尺等の援助があったものであろう)、冬新築の芭蕉庵に入った。新庵は旧庵と程遠からぬあたり、深川元番所、森田惣左衛門屋敷の一角であった。
 
ふたゝび芭蕉庵を造りいとなみて
あられきくやこの身はもとのふる柏《かしは》
 
(『続深川集』)
 
 
すでに俳諧に没入する自信と覚悟
 年があけて天和四年(二月二十一日に貞享と改元・四十一歳)の正月は、
 
春立《はるたつ》や新年ふるき米五升
 
(『三冊子』)
注 初案は「我富り新年古き米五升」
 
(真蹟短冊)
 
と詠み、隠者としての自足の情を示した。前年の天和三年は甲州|流寓《るぐう》の事などがあって、俳諧活動は必ずしも活発でなかった。しかし、この間に芭蕉の隠者的心境が円熟したことに注目したい。肩を怒らせて隠者的ポーズを取っていた二、三年前の姿勢はもう見られない。中国の詩人にならった気取りも、次第にかげを潜めて来る。漢語調や字余りの句も少なくなる。
 数年前深川へ退隠した時は、通俗的な宗匠生活を断念し、真の隠者になるのだと、一所懸命自分にいい聞かせているようなところがあった。それは、現実生活からの退隠が、一種の失意だったからである。失意ではないといい聞かせながら、やはり悲哀感傷の気を覆《おお》い得なかった。だから、杜甫《とほ》もそうだ、李白《りはく》もそうだ、淵明《えんめい》もそうだ、と、中国の文人たちを挙げ、その列に自分も加わるのだと自分にいい聞かせて、挫折《ざせつ》を支えようとした。だがようやく今は一種自得の境地に近づきつつある。それは隠者ではあるが、消極的な無為の隠者ではなく、世俗からの引退という意味では消極的隠者だとしても、そのことが芸術・文学へ積極的に貢献するという意味では前進的意義を持つという、秘かな自負《じふ》が胸中にあるからである。
 世俗から引退したのも、芸術へ献身する為には、それより外に道がなかったからであり、俳諧に没頭し、文学に人生を捧げることが有意義な人生だという自信が出て来たからである。富貴や栄華を諦めるだけなら消極的隠者である。芭蕉の場合、芸術に、文学に、俳諧に総てを捧げよう、純粋に風雅のためだけに生きようと決意した結果、富貴や栄華が眼に入らなくなって来たのである。そこに、おのずから世俗を等閑視するようになったのであって、それが即ち風狂である。
 ここまで来るには、しかし、一朝一夕ではなかった。深川退隠以来、数年の間に少しずつ円熟して来たのである。だから芭蕉は、世間を殊更憎悪したり、軽蔑したりはしていない。ただ世間を顧みている暇がないから、世俗人からは世間を蔑視しているように見えたのであって、それが世間にとって風狂に当たるのである。世間から、尋常でなく、気違いじみて見られるとしても、それは仕方がない。それは覚悟の上だ。その覚悟が自然にでき上がったので、真の隠者らしく見え出したということである。
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