故郷へ飾る“風狂”という錦
この年(貞享元年・四十一歳)の秋八月江戸を立って、翌年の二月まで、芭蕉は長い旅に出た。いわゆる『野ざらし紀行』(甲子吟行)の旅であるが、この旅行が行なわれたのは、芭蕉が、心境的にも俳諧隠者として風狂の境地を会得したと自覚したからであろう。もう故郷へ帰ってもよいと考えたからである。今や自分が、俳壇から、純粋な、芸術としての俳諧の推進者として評価され、自分の気持ちとしても、風狂の体現者として一応自得の境地を得たと考えたから、故郷への旅を実行したのであろう。もちろん、昨年没した母の墓参の気持ちもあった。だが、もうここで、一度故郷へ帰ってもよいと、みずから許すところがあっての旅行である。
「錦を着て故郷へ帰る」という言葉がある。芭蕉のこの帰郷は、錦を着た帰郷とはいえそうもない。しかし、こういう人間になりましたと、自分なりに納得のいった気持ちで故郷へ帰るのではある。肥馬に乗り好裘《こうきゆう》を着て、得々として郷関に入るわけではないが、風狂の人となったことをみずからよしとして帰郷する意味では、秘かに識者の共感を得られる自信もあったのではないか。児童や老婆の賞讃を期し得ないとしても、何人かの心ある人々の同感を期待する意味で、一種の錦を着た帰郷といえないこともない。風狂という一種の錦を着た帰郷である。
野ざらしを心に風のしむ身哉
秋|十《と》とせ却《かへつ》て江戸を指《さす》故郷
これは、紀行の巻頭句だが、野ざらしのしゃれ頭《こうべ》になることを覚悟して旅に出ることは、世間尋常の眼から見れば風狂である。世間の人たちは、そんな覚悟で旅に出ることはない。それをあえて「野ざらし」になろうとして旅に出ると決意するところに、風狂の宣言がある。「秋十とせ」の句には、二十九歳で江戸へ出て来て以来の数々の辛苦や、現在の、ともかくも達し得たある自得の心境を顧みての感慨が滲《にじ》み出ている。延宝四年三十三歳の夏にも桃印をつれにちょっと帰ったことがある。その時の帰郷と今度の帰郷とには大きな差異がある。あの時はまだ若く、青雲の志に燃えていた。今は青雲の志は消えて、しかし純粋に芸術に徹する気持ちだけが残っている。乞食《こつじき》の僧の形をとる点では、青雲の志は脆くも破れたといわなければならない。その代わり現実を捨てて芸術に献身する覚悟だけはできた。その覚悟を持って、大手を振って芭蕉は郷関をくぐろうとしているのである。
捨て子を見捨てねばならない芭蕉
『野ざらし紀行』の中で、富士川のほとりで捨て子を見かける一節がある。
富士川のほとりを行《ゆく》に、三つ計《ばかり》なる捨子《すてご》の哀げに泣有《なくあり》。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたえ(へ)ず、露|計《ばかり》の命待つまと捨置《すておき》けむ。小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂《たもと》より喰物《くひもの》なげてとを(ほ)るに、
猿を聞《きく》人捨子に秋の風いかに
いかにぞや、汝、ちゝに悪《にく》まれたるか、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪《にくむ》にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯、これ天にして、汝が性《さが》のつたなき(を)なけ。
よく引用される著名な一節である。この一条を虚構だという人があるが、私はとらない。そのことについては、別に小論を草したので(「成蹊国文」創刊号)ここでは触れないが、旅中の詠草を記した左記の真蹟草稿のあることを以てしても明らかであろう。
旅立
野晒《のざらし》を心に風のしむ身哉
秋ととせ却而《かへつて》江戸を指《さす》故郷
夜更《よふけ》に宿を出《いで》て/明んとせし程に
杜牧《とぼく》が/馬鞍《ばあん》の吟をおもふ
馬上落ンとして残夢残月茶の烟
途中捨子を憐
猿を(啼《泣》)旅人捨子に秋の風いかに
伊勢山田西行谷ニ/あそふ途中の即事
芋洗フ女西行ならば歌よまん
この真蹟草稿中に収められている句は、すべて『野ざらし紀行』中の発句であって、「猿を泣旅人」以外の発句も、いずれも虚構とは考えられない句である。句の前書きも『野ざらし紀行』に比べて素朴ではあるが、それだけにかえって実感がある。句形も初案形で、句の巧拙は別として実感の裏付けのあったことを思わせるものがある。
概していって、『野ざらし紀行』には、後に『笈《おい》の小文《こぶみ》』や『おくのほそ道』の条で述べるような大きな虚構は見られないといってよいであろう。
それはともかく、捨て子を見ても芭蕉はわずかに袂から食い物を投げ与えて去るのみだった。当時の農村は、耕地面積の不足から、人口増は極端に抑えられていた。妊娠中絶も多かったが、捨て子も多かった。捨て子を収容する施設も無きに等しい。まして、実事を捨てた芭蕉に何ができよう。芭蕉は、食い物を与えて去るより外仕方がなかったのである。だが、仕方がないといって平気でいられるなら、事は簡単である。仕方がないことは解っていても、芭蕉は「猿を聞人捨子に秋の風いかに」と詠まずにはいられなかった。
それが世捨て人の純粋な人生態度だった
猿の鳴き声を聞くと断腸の思いがすることを、中国の詩人たちは詩文の中で書き続けて来た。その文学伝統は、わが国の文学の中にも継承され、猿の鳴く声を聞いて悲しく涙を流さないものは詩人ではないとされる。だからこの句は、猿の鳴き声を悲しいと聞く文人たちよ、と呼びかけて、そういう虚事の悲しみもさることながら、この眼前の捨て子に吹く秋風の現実の悲しみを、君たちはどう受けとるかと問いを出している。虚事の悲しさは現実の悲しさに対して、空しい気がしないかと、尋ねているのである。
もちろん、その問いは、文人としての自分自身に対する切実な問いかけでもある。現実を捨てて芸術に専念する決心をしたのだが、捨て子を眼前に見て、自分の現実的無力に対する痛切な反省が、その決心を動揺させるのである。しかし結局、芭蕉は現実を捨てるより外はない。しかし、ただ安易に現実を無視するのでなく、この痛切な反省の上に立って芸術に献身しようとするところに、強く、激しく、純粋なものがあるといってよいであろう。
もう一つ『野ざらし紀行』から引用してみよう。
廿日|余《あまり》の月かすかに見えて、山の根際いとくらきに、馬上に鞭《むち》をたれて、数里《すり》いまだ鶏鳴《けいめい》ならず、杜牧《とぼく》が早行《さうかう》の残夢《ざんむ》、小夜《さよ》の中山に至りて、忽《たちまち》、驚《おどろく》。
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり
この句文が杜牧の「早行」の詩を踏んでいることは周知のところで、即ち「鞭ヲ垂レテ馬ニ信《マカ》セテ行ク、数里《スリ》未ダ鶏明《ケイメイ》ナラズ、林下残夢ヲ帯《オ》ビ、葉飛ンデ時ニ忽チ驚ク、霜凝ツテ孤鶴《コカク》|〓《ハルカ》ニ、月暁ニシテ遠山横タハル、僮僕《ドウボク》険ヲ辞スルヲ休《ヤ》メヨ、何ノ時カ世路平カナラン」(原漢文)で、この漢詩の結びの二句は、漢詩らしい結び方である。こういう時勢に対する慷慨を述べて結句とするのが、漢詩の常套手段といってもよい。
しかるに芭蕉は、この詩を、前掲した句文の中に、たくさん引きながら、この詩の結句である、時世に対する慷慨の部分は全く無視している。つまり、私の悲憤は述べても、現実に対する公の慷慨は決して述べないのが、芭蕉の態度である。それは上来述べて来た芭蕉の新しい決意、現実を捨てて芸術に献身しようという覚悟につながるものである。現実とのかかわり合い、即ち実事を捨てる立場を取った以上、時世に対する慷慨はあるべきはずでない。時世を慨し、政治を論ずることは、虚事に専念する立場を取った以上は、不純のことである。その姿勢は、このあとずっと、芭蕉の後半生につながって行く。もう一度改めて論ずることもあるであろう。