自分を滑稽小説の主人公に擬して
こうして芭蕉は故郷に帰った。旧暦九月八日のことである。延宝四年の帰省以後からでも七年|経《た》っている。故郷に今は母はなく、風物も変わりはてていた。
何事も昔に替《かは》りて、はらからの鬢《びん》白く、眉皺寄《まゆしわより》て、只《ただ》、命|有《あり》てとのみ云《いひ》て言葉はなきに、このかみの守袋《まもりぶくろ》をほどきて、母の白髪《しらが》おがめよ、浦島の子が玉手箱、汝がまゆもやゝ老《おい》たりと、しばらくなきて、
手にとらば消《きえ》んなみだぞあつき秋の霜
(『野ざらし紀行』)
という次第であった。 芭蕉はしばらく故郷に滞在の後、大和の竹内村の門人|千里《ちり》の実家を訪れ、当麻《たえま》寺に詣《もう》で、吉野山に登って西行の旧跡を見た。大和から山城・近江路を辿《たど》り、今須・山中・常盤《ときわ》塚《づか》・不破関址《ふわのせきし》を経て、美濃国大垣に出る。ここにはかねて文通のあった木因《ぼくいん》等の知友・門人もいて、俳席が持たれた。それから桑名・熱田・名古屋でも、招かれて多くの俳席に出た。風狂の隠者としての名望が地方にも知られて来ていたのである。
名古屋では、次の句を発句にして、連句の会が行なわれたが、その発句にも、この頃の芭蕉の心境の一端は示されている。
笠は長途の雨にほころび、帋衣《かみこ》はとまりのあらしにもめたり。侘《わび》つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂歌の才子、此国にたどりし事を不図《ふと》おもひ出て、申侍る。
狂句 こがらしの身は竹斎《ちくさい》に似たる哉
芭蕉
(『冬の日』)
竹斎は実在の人物ではなく、仮名草子『竹斎』の主人公である。山城の藪医者で、食いつめて江戸へ下る途中、名護屋に入り、狂歌を詠みちらす。つまり滑稽小説の主人公である。
この句は、名古屋の俳諧作者たちと連句を作る会で披露され、これを発句にして連句が巻かれたのだが、まだ馴染《なじみ》のうすいこの人々に対して、自分は滑稽小説の主人公のようなものなのですよ、と宣言しているわけである。地方俳壇の人々に対して、自分は他の宗匠と違って、俳諧を「狂句」だと思いながら、しかもその狂句に献身している人間だ、世間からなぶり者にされ、戯画化されている竹斎同然なのだ、ということによって、自分を無用者だと宣言する。しかしまた、単なる無用者ではない、世間的な無用者であることによって、かえって純粋に芸術に献身するものだ、と自負を語っていることでもある。
この時の連衆は、野水(呉服商)・荷兮《かけい》(医師)・重五(材木商)・杜国《とこく》(米穀商)・正平・羽笠等で、この連句を中心に編まれた『冬の日』(貞享元年刊)は、後にいわゆる『俳諧七部集』の第一集となった。始めのところを引用して置く。
狂句 こがらしの身は竹斎に似たる哉
芭蕉
たそやとばしるかさの山茶花《さざんくわ》 野水
有明《ありあけ》の主水《もんど》に酒屋つくらせて 荷兮
かしらの露をふるふあかむま 重五
朝鮮のほそりすゝきのにほひなき 杜国
日のちりに野に米を苅《かる》 正平
(下略)
ひたすらに風狂の中に沈潜
歳末に郷里に戻って越年したが、一月二十八日付けの同郷山岸半残宛ての書簡の中で、江戸で出版された俳書の中に、「なまきたへなる句、或は云《いひ》たらぬ句」などがたくさんあるから、もしそんな句を手本と考えたらよくない、前々年の六月に刊行された『虚栗《みなしぐり》』(其角編)の中にも、「さた(沙汰)のかぎりなる句」などがたくさんあるといって、自派の句集である『虚栗』に対しても、批判的態度を示している。
『虚栗』には、漢詩漢語調や字余りの句が多く、奇矯な句や、わざとらしい句が少なくない。芭蕉自身の作品にも、そのような傾向の見られた時期の句集である。芭蕉は、一、二年のうちに、そこを通り抜けてしまった。もう今の芭蕉には、そのような異体変調は「さたのかぎり」となった。問題外である。世間の栄華に抵抗するために、肩を怒らせて、隠者を気取る必要はなくなった。今は、風狂の人という声望を得た芭蕉である。風狂の中に沈潜することが芭蕉の志す方向である。だからこの時期の発句は、
尾張の国あつたにまかりける比《ころ》、人|師走《しはす》の海みんとて、舟さしけるに、
海くれて鴨の声ほのかに白し翁
(『皺筥物語』)
爰《ここ》に草鞋《わらぢ》をとき、かしこに杖《つゑ》を捨て旅寝ながらに年の暮《くれ》ければ、
年|暮《くれ》ぬ笠《かさ》きて草鞋はきながら
(『野ざらし紀行』)
大津に至る道、山路をこえて、
山路来て何やらゆかしすみれ草
(『皺筥物語』)
湖水の眺望
辛崎《からさき》の松は花より朧《おぼろ》にて
(同右)
というような自然調詠や風狂的姿勢が見られるのである。
この年(貞享二年・一六八五)四月の末に、木曾路・甲州路を経て、芭蕉は江戸に戻った。そして、芭蕉庵にあって『野ざらし紀行』の草稿を書いたり、江戸の門人・知友等と、風雅の交わりを深めたりして、その年は暮れ、
もらふてくらひ、こふてくらひ、やをらかつゑもしなず、としのくれければ、
めでたき人のかずにも入《いら》む老のくれ
(『栞集《しおりしゆう》』)
と詠んだ。隠者としての心境が、ようやく安定して来たさまを見られよう。