高雅隠逸の詩境に新しい安定
「古池や蛙飛《かはづとび》こむ水の音」(『春の日』)は、有名な句である。この句の初案は「古池や蛙飛ンだる水の音」(『庵桜』)であって、この形を所収する『庵桜』成立が、貞享三年三月下旬(奥書き)頃と考えられるところから、志田義秀博士は、この句の成ったのは、天和二年(一六八二)か、天和元年であろうとされた(『芭蕉俳句の解釈と鑑賞』)。
それはともかく、「古池や蛙飛こむ水の音」の形になったのは、前章に引き続いて、江戸へ戻った年の翌年の貞享三年春(芭蕉四十三歳)と思われる。竹人の『芭蕉翁全伝』には「右、江戸本町六間堀鯉屋藤右衛門|〓《いけす》やしきの所、其世あれはて、藻草に埋みたる時の偶感とかや。……」とあるが、門人の支考は、始めに下の七・五ができ、上五字について、傍にいた其角が「山吹や」と置いてみたが、芭蕉は気に入らず、結局「古池や」の形になったと述べている(『葛の松原』)。そうして支考はこの句を天和のはじめごろの句とし、「天和のはじめならん、武江の深川に隠頓して、古池や蛙飛込む水の音、と云へる幽玄の一句に自己の眼を開きて、是より俳諧の一道は弘まりけるとぞ」(『俳諧十論』)という。
しかし、支考の入門は元禄三年で、この時はまだ入門していない頃のことであるから、この説を全面的に受け容れることはできない。支考と仲の悪かった越人などは、支考のこの説を痛烈に批判している(『不猫蛇』)。芭蕉生前も著名な句であったことは、今日も多くの真蹟が残っていることによって推測できるが、芭蕉といえば「古池や」の句を連想するほど著名になったのは、むしろ芭蕉死後のことである。
この句を中心にして、衆議判(判者を特にきめないで、一座の衆議によって勝負をきめること)による蛙の句の二十番|句合《くあわせ》が、芭蕉庵で行なわれ、同年閏三月に『蛙合』(仙化撰)と題して出版された。
また秋には、其角・仙化等と隅田川に船を浮かべて中秋の名月を賞した。船中に仙化の従者がいて、酒の燗《かん》をしていたが、「名月は汐《しほ》にながるゝ小舟哉」と詠んだので、人々は「かつ感じ、かつ恥」じたと、其角は記している(『雑談集』)。夜半十二時頃に船を上がって、芭蕉は草庵に帰ったが、その夜、
名月や池をめぐりて夜もすがら桃青
(『孤松』)
の吟を得た。風雅に遊び、自適している芭蕉の様子がうかがわれる。
用事も捨てる風雅本位の生活
門人も陸続とふえ、世間の評判も高く、三十五、六歳頃の安定とはまた違った意味で、芭蕉の身辺は安定しつつあったと見てよい。世間通常の俳諧師とは違った、高雅隠逸の詩人としての、新しい評価を世間から受けるようになったのである。
例えば、この年(貞享三年)閏三月十六日付けの、鳴海の知足宛ての書簡を見ると、芭蕉は知足から短冊の揮毫《きごう》を依頼され、それは芭蕉ばかりでなく、門人や、他門の宗匠たちの染筆の斡旋《あつせん》まで頼まれていることが解る。同じく十二月一日にも、人々に短冊を十三枚揮毫させて送った手紙がある。その中には「猶、追々、力次第に頼候|而上《のぼ》せ可レ申候間、老養御楽ミ可レ被レ成候」というようなことばも見える。
この年か、あるいは前年(貞享二年)かと考えられる、次のような句文もある。
我くさのとのはつゆき見むと、よ所《そ》に有《あり》ても、空だにくもり侍れば、いそぎかへること、
あまたゝびなりけるに、師走《しはす》中《なか》の八日、はじめて雪降《ふり》けるよろこび、
はつゆきや幸《さいはひ》庵にまかりある
(『栞集』)
自分の草庵に初雪の降るさまを見たいものだと、外出していても、空が曇って雪|催《もよ》いになると、用事を抛《ほう》り出して、急いで草庵に帰って来ていた。何度もそんなことがあったが、ちょうど草庵にいる十二月十八日に初雪が降り出したよろこびを書いている。雪・月・花は、風雅の三つの大きな景物である。ひたすら風雅に心を打ちこみ、生活が風雅本位になっていることがわかるであろう。外出するのは用事があるからである。しかし、空が曇って来ると用事を抛《ほう》り出して、草庵の初雪を見ようと、飛んで帰って来るという姿勢に、用事本位の生活でなく、風雅本位の生活のさまがうかがわれる。風流三昧である。生活が芸術化され、生活と芸術が一体化されている。
だからこの年の歳暮吟には、
月雪とのさばりけらしとしの昏《くれ》 芭蕉
(『続虚栗』)
と詠んだ。正に、月よ、雪よ、花よと、ほしいままに振舞った一年であった。
生活がそのまま俳諧と一体に
翌貞享四年(四十三歳)も、前年の延長として風流に自足の生活が続く。
物皆自得
花にあそぶ虻《あぶ》なくらひそ友雀《ともすずめ》 芭蕉
(『続の原』)
花も、虻も、雀も、それぞれに自得して、安んじ楽しむべしの意であろうが、それはまた芭蕉自身の心境でもあったであろう。
草庵
花の雲鐘は上野か浅草|歟《か》 芭蕉
(『続虚栗』)
この句を揮毫した真蹟が少なくなかったようであるから、当時としては芭蕉の気に入った句だった。また世間受けのよかった句でもあったろう。これまた草庵自足のさまであり、風流に遊ぶ閑雅自適の状と見られる。
露沾《ろせん》公に申侍る
五月雨《さみだれ》に鳰《にほ》の浮巣を見に行《ゆか》む 翁
(『笈日記』)
十年前から出入りしていた内藤家の露沾公に送った夏の句である。この前年頃から、また上方の旅に出る心づもりがあったので、琶琵湖(鳰の海)の鳰の浮き巣を見に行こうと思っていますよと、留別の意を籠めたと解釈できないこともないが、この句については、『三冊子』に次のような芭蕉の言葉が伝えられているので、仮に表向きは留別の形を取っているとしても、この句の真意はもっと別のところにあったと見たい。
春雨の柳は全体連歌也。田にし取《とる》烏《からす》は全く俳諧也。五月雨に鳰の浮巣を見に行く、といふ句は、詞《ことば》にはいかいなし。浮巣を見に行《ゆか》んと云《いふ》所、俳也。
(『三冊子』)
「鳰の浮巣」というのは、「かいつぶり」とも呼ぶ水鳥が、夏季、芦や荻などの水辺の草の根元に作る巣で、水量が増しても水中に没しないように水に浮くしかけになっている。この文章の大意は、春雨が降って、その春雨に柳がぬれて芽ぶいているというような情趣は、和歌・連歌的な情趣である。これに対して、烏が田にしをとっている情景は、連歌には見られない、俳諧的な情景だ。ところで、五月雨《さみだれ》のおりから、鳰の浮き巣を見に行くというのは、五月雨も、鳰の浮き巣も、古来の和歌・連歌にしばしば詠まれている素材で、素材自体には俳諧としての独自性はないが、五月雨の降っている中を、わざわざ浮き巣を見に行こうという心境・姿勢に、従来の和歌・連歌に見られないものがあり、それが俳諧だ——というようなことである。つまり、素材がすでに俳諧的なものもあるが、素材は和歌・連歌を出なくとも、作者の姿勢に俳諧的なものがあれば、俳諧性を持ち得るのだということである。
どんな姿勢、どんな心境かと言えば、それは、五月雨が大分降りつづく、きっと水かさが増して、鳰の浮き巣が水に浮かんでいるところが見られるだろう、一つ出かけて見て来よう、というような風狂閑雅な精神である。家にいて、鳰の浮き巣を空想して歌を詠むような、生《なま》ぬるい傍観的な姿勢でなく、五月雨に濡れて雨の中を出かけて行くところにこそ、風狂の心があり、それが俳諧だというのである。
前に掲げた「初雪」の句と同様な姿勢であって、前年以来芭蕉の生活が、風雅と一体化し、生活即俳諧になっていることがわかるであろう。
この年の秋に、江戸から利根川下流の向こう側の鹿島まで、中秋名月を賞しに出かけて行ったのも、右のような風流三昧の生活の姿勢からである。鹿島の根本《こんぽん》寺には、禅の師である仏頂《ぶつちよう》和尚がいた。あいにく昼間から雨が降り出したが、夜明け方に雨が上がり、「月のひかり、雨の音、たゞあはれなるけしきのみ、むねにみちて、いふべきことの葉もなし」(『鹿島紀行』)であった。