旅を興じ旅をたのしむ
この年の初冬十月二十五日に、江戸から上方方面の旅に出立したのも、安定した風雅本位の生活の延長としてである。だからこの時の門出には、前回の上方旅行の『野ざらし紀行』の時のような緊張感はない。『野ざらし紀行』の門出の句は、「野ざらしを心に風のしむ身哉」であり、「秋十とせ却《かへつ》て江戸を指《さす》故郷」であったが、今回の門出の句は、
旅人と我名よばれむ初しぐれ
であって、初しぐれの降る折りからの旅を興じたのしむ心境が示されている。
江戸の俳壇に於ける地位が、最早揺るぎないものであったことは、出立に際しての壮行が盛大であったことにも示されている。その盛大なさまは、知友・門人の餞別の詩文を中心に編集した『句餞別《くせんべつ》』に明らかであるが、芭蕉自身が『笈《おい》の小文《こぶみ》』のはじめに、内藤|露沾《ろせん》公からの餞別句を始めとして、
……旧友・親疎《しんそ》・門人等、あるは詩歌文章をもて訪《とぶら》ひ、或は草鞋《わらぢ》の料《れう》を包《つつみ》て志を見《あらは》す。かの三月の糧《かて》を集《あつむる》に力を入《いれ》ず。紙布《かみこ》・綿小《わたこ》などいふもの、帽子・したうづやうのもの、心々に送りつどひて、霜雪の寒苦をいとふに心なし。あるは小舟をうかべ、草庵に酒肴《さけさかな》携《たづさへ》来りて行衛《ゆきえ》を祝し、名残をおしみなどするこそ、ゆへある人の首途《かどで》するにも似たりと、いと物めかしく覚えられけれ。
と記していることによっても十分察せられる。
従ってこの旅は、各地に俳席を持って多くの連句を巻き、また雅遊を重ねる旅であった。それはまた、東海・関西の各地に蕉風を拡大するもといとなった。
東海道の鳴海から引き返して、渥美《あつみ》半島の伊良湖岬へ杜国《とこく》を訪れたのは、かつて『冬の日』の連衆の一人であった名護屋の杜国が、罪を得て屏息《へいそく》しているのを慰める意図であった。芭蕉はこの門人に単なる俳諧の門人として以上の愛情を抱いていたように思われる。杜国は御領分追放の身の上であったから、翌年春、海路を伊勢に出て上野に芭蕉を訪ね、吉野・高野山・和歌の浦・奈良・大坂・須磨・明石と芭蕉の旅に随伴している。この杜国を伴っての旅は、芭蕉にとって楽しい遊歴の旅であった。
話を元に戻して、東海各地で俳席の多かったことは、「此間《このかん》、美濃《みの》・大垣・岐阜《ぎふ》のすきものどもとぶらひ来りて、歌仙あるは一折など度々に及《およぶ》」(『笈の小文』)と芭蕉自身が書いている通りで、芭蕉翁が来たというので、俳諧好きの人々が、この名士をこぞって迎え喜んでいるのである。芭蕉も、桑名から故郷へ帰る道の杖つき坂では、
歩行《かち》ならば杖つき坂を落馬哉
などと、呑気な句を作って興じている。
歳末、故郷に帰り、亡母の展墓をしたのち越年したが、大晦日に年忘れの酒を飲み過ぎて、元日はひる迄朝寝をする始末であった。それから伊勢に出て多くの俳席をつとめ、一旦上野へ戻ったが、やがて三月十九日杜国を伴って前記の旅に出た。江戸から明石迄の旅の記が後に『笈の小文』として執筆される。
名声上がり、句作は安易に
杜国とは五月初旬京都で別れ、京・大津・岐阜・名護屋方面に漂泊しながら、各地に俳席を持って八月上旬に及んだ。
八月十一日に岐阜を立ち、越人を供に、信州更科の中秋の名月を賞し、長野・碓氷《うすい》峠を経て、江戸に戻ったのは八月下旬であった。この旅の記が『更科紀行』として執筆された。
『笈の小文』の草稿が執筆されたのは、この旅のあと二、三年後の元禄三、四年頃であり、『おくのほそ道』旅行のすんだ翌年か、翌々年であるから、そこには『おくのほそ道』旅行後の、芭蕉の新たな脱皮と工夫とが書きこまれ、この時の旅行のありのままの気分が流露していると見ることはできない。また、挿入されている発句も、元禄三、四年頃に旅を回想して作った句や、改作した句が多いから、『笈の小文』を以て直ちにこの時の旅を推し計ることは軽率であるが、それらの点を慎重に割引しながら、この旅を考えてみると、岐阜から木曾路を経て信州更科へ廻る帰路の旅は別として、その前までのこの旅は、杜国を伴っての遊歴の旅と、知友・門人に招かれて俳事をつとめる旅とである。東海地方・故郷・伊勢・京・湖南地方などに、非常にたくさんの句会が芭蕉を待ち受けていた。また芭蕉はよろこんでそれらの句会に出席した。それは自分の考えている俳風を世に拡めることであり、自分の俳風の共鳴者、同行者を得ることであったから、芭蕉にとって必ずしも楽しくないことではなかった。
すでに述べたように、芭蕉は、自分の道が世間の俳諧宗匠の道と異なることに自負を抱いていたし、芭蕉を招く人々も、名利を去った隠逸詩人として、尊敬の念を以て迎えた。芭蕉は句会に出て人々を指導し、自己の俳風の宣揚《せんよう》につとめた。門人はふえ、名声は上がる。作品の量もこの年は多い。しかし、作品の質を見ると、その量の多い割に傑作に乏しい。もちろん傑作が全くないわけではないが、緊迫感の薄い句が多い。発句について例を挙げてみると、
ゆきや砂馬より落《おち》て酒の酔
梅つばき早咲ほめむ保美《ほび》の里
梅の木に猶やどり木や梅の花
はだかにはまだ衣更着《きさらぎ》のあらし哉
初桜折しもけふは能《よき》日なり
桜がりきどくや日々に五里六里
此ほたる田毎《たごと》の月とくらべみん
等々であって、悪い句を余りたくさん挙げる必要もないからこのくらいにとどめるが、やや安易な句が多いことは確かである。もっとも、これらの作の多くは連句の会席に於ける発句——いわゆる立句《たてく》であるから、いわゆる地《ぢ》発句よりも軽いのは、立句の性質上、当然のことであるが、それにしても、数年前の、あの談林派の行きづまりの中から新しい俳風を樹立しようと必死の努力を傾けた時期の作品と比べて、安きについている感じを否定できない。
ここに第二の転機
芭蕉が、この旅行の前あたりから一種の自足感を持ち、この旅行に風流に遊ぶ気分を持っていたことについてはすでに述べた。また、この旅行が、蕉風の宣揚と拡大の意味を持っていることについても述べた。そこに、芸術家にとって最も大敵である一種のゆるみが生じたといっては、いい過ぎだろうか。この旅行が、蕉風の拡大、門人の増加を招来した意義は大きい。しかし、そのために芭蕉の活動は、どちらかというと、純粋な詩人的活動よりも、指導者・教育者としての活動に比重がかかった。芸術家が後進の指導に熱心になれば、必ずその作家的前進は停滞する。
芭蕉はこの旅の終わり頃から、自己の詩人的活動の停滞を秘かに自覚し始めたのではあるまいか。門人のいない地方を歩き、自己の俳風の更に新たな飛躍を計りたいと考え出したのではあるまいか。岐阜から信州更科へ月見を志したのは、その第一歩であろう。すでに大津にいた時から、芭蕉の胸中に更科の月見が志されていた。辺鄙な木曾路を歩いているうちに、こういう旅こそが詩人の魂を養うものであることに気がついた。そんな気持ちが、翌年(元禄二年・一六八九)の『おくのほそ道』の旅となっていったと考えたい。
だから、辺鄙な東北・北陸への旅は、『笈の小文』の旅の単なる延長とは思われない。むしろ『笈の小文』の旅の脱皮であり、数年来の安定をみずから破って、更に新たな開拓を志し、自己試練に身を置こうとしたものと考えたい。
もし延宝の末年の、談林からの脱皮の時期を、芭蕉の第一の転回期と見るならば、ここに第二の転回期が正に来ようとしているのである。