身は乞食の境遇に落ちようとも
元禄元年八月下旬、久しぶりに江戸に戻って来た芭蕉を、知友・門人たちは次々に訪れた。
「毎日客もてあつかひ」(元禄二年正月十七日付け半左衛門宛て書簡)と芭蕉自身書いている通りで、俳席は多かったが、「此冬は物むつかしく句も不出候」(十二月五日付け尚白宛て書簡)という状況であった。もっとも、この表現には謙退の意味があることはもちろんで、九月中旬頃の越人との両吟歌仙「厂《かり》がねも」の巻などは出色のものというべきであろうが、しかしまた全くの謙退ともいえないであろう。
「愚句何事も無二御坐一、人|出合《であひ》もむつかしと、近辺|子共《こども》のやうなる俳諧折々いはせてなぐさみ申候」(十二月三日付け益光宛て書簡)とか、「去年の秋より心にかゝりておもふ事のみ多ゆゑ」(翌年の猿雖〈推定〉宛て書簡)とかいうようなことばも符節を合わせて考えられる。
そして、元禄二年(一六八九・四十六歳)の正月には、もう確実に『おくのほそ道』旅行が企図されている。正月十七日付け兄半左衛門宛て書簡に「何とぞ北国下向之節立寄候而、関あたりより成とも通路いたし、しみ可二申上一候」とあり、前掲の猿雖(推定)宛て書簡(元禄二年閏正月乃至二月初旬筆)に、
去秋は越人《ゑつじん》といふしれもの木曾路を伴ひ、桟《かけはし》のあやうきいのち、姨捨《をばすて》のなぐさみがたき折、きぬた・引板の音、しゝを追《おふ》すたか(姿カ)、あはれも見つくして、御事のみ心におもひ出候。とし明《あけ》ても猶旅の心《ここ》ちやまず、
元日は田毎の日こそ恋しけれ ばせを
弥生に至り、待侘《まちわび》候|塩竈《しほがま》の桜、松島の朧月、あさかの沼のかつみふくころより、北の国にめぐり、秋の初、冬までには、みの・おはりへ出候。(中略)去年(の)たびより魚類|肴味《かうみ》口に払捨《はらひすて》、一鉢境界乞食《いつぱつきやうかいこつじき》の身こそたうとけれと、うたひに侘し貴僧の跡もなつかしく、猶ことしのたびはやつしてこもかぶるべき心がけにて御坐候。(下略)
とある。「こもかぶるべき心がけにて御坐候」というのは、乞食の境涯になることを辞さないということで、従来の門人の間を泊まり歩く旅や、小旅行にはあり得ない覚悟である。
『笈の小文』旅行には、乞食になる覚悟もないし、その不安もなかった。今回の旅行は違う。
「こもかぶるべき心がけ」とは、実事を放下し、虚事に専念する覚悟である。現実的関心事を捨て切って、一切を芸術に献身しようという決意である。蕉風の宣揚や自派の拡大も考えない。詩人に徹することによって、新たな詩的飛躍を計ろうとする決心である。
だから芭蕉は、深川の草庵を売って旅費にあてた。後に帰るべき家がないとしても、後事を考える余裕がないのだ。事実、旅がおわって上方地方漂泊ののち、江戸に戻ろうとした際、帰るべき家がなくて芭蕉は困っている。そのために江戸に戻ることが遅れたと見られる節《ふし》もある。だが、今はそんなことは構っていられない。虚事に専念する以上、そんな実事を省みてはいられないのである。
では芭蕉は『おくのほそ道』の旅を、具体的にどういう態度で歩こうとしたか。
陸奥へ旅立つ心構え
この旅に随伴した門人の曾良は、出発前にかなり念入りに、名所、歌枕、旧蹟を調べて備忘録をととのえ、「延喜式神名帳」の抄録を作っている。芭蕉と旅程を相談した上のことであろう。陸奥には古来の歌枕が多い。名所、旧蹟も少なくない。殊に東日本側に多い。歌枕、名所、旧蹟をじっくり見て来ようという気持ちが、まず芭蕉の脳裡にあったと見ることは、不当でない。試みに、奥羽山脈を越えるまでの『おくのほそ道』旅行で歴訪され、紀行に名前の出て来る歌枕、名所、旧蹟の類を列挙してみよう。それは、
室の八嶋・黒髪山(男体山)・日光・那須野・黒羽(犬追う物の跡・那須の篠原・玉藻の前の古墳・那須八幡)・殺生石・遊行柳・白川の関・影沼・浅香山・黒塚・しのぶもじずり石・佐藤庄司の旧蹟・蓑輪・笠嶋(以上二つは遠望)・武隈の松・名取川・宮城野の萩・玉田・横野・つゝじが岡・木の下・十符の菅・壺碑・野田の玉川・沖の石・末の松山・塩竈の浦・籬が島・塩竈明神・松島・雄島・瑞岩寺・(姉歯の松・緒絶の橋)・石の巻・金華山(遠望)・袖のわたり・尾ぶちの牧・真野の萱原・平泉の旧蹟・岩手の里・小黒崎・美豆の小嶋
などであって、細かくいえば、もう少し数は増すであろう。大部分が歌枕である。これらの歌枕は、今日のわれわれの常識からいうと、つまらないとしか思われないものが多いのだが、芭蕉と曾良は、それらの歌枕をせっせと精を出して歴訪し、敬虔な態度でこれに対している。
例えば遊行柳にしても、本当に西行が立ち寄った柳かどうか疑問だし、もしそうだとしても、どうせ西行から何代目かの柳である。あたりの風景といっても田圃の中で、さして好風光といえるような環境ではない。しかし、そこで芭蕉は往事を思い、古人を偲び、感慨に耽っている。武隈の松にしても、根元から二股に分かれている松はそんなに珍しいものではない。しかも、能因法師以来何代目かの松である。だが芭蕉は、『おくのほそ道』によれば、「武隈の松にこそ、め覚《さむ》る心地はすれ」と書き、「先《まづ》、能因《のういん》法師思ひ出《いづ》」と書いている。そうして、代々、あるいは伐《き》り、あるいは植え継いだ松だが、今また千年も前の形がそっくり残っていて、まことによい松のさまだと感歎している。
壺碑《つぼのいしぶみ》にしても同様である。今日見れば、何ということもない石碑で、しかも後年の偽造である。しかし芭蕉はこの石碑に「古人の心を閲《けみ》」して、「泪《なみだ》も落《おつ》るばかり也」と書く。
もっとも、後述するように、『おくのほそ道』の執筆は元禄五、六年頃であろうから、旅行中の事実や感慨が、そのまま書かれていると見ることはできない。その点は、先述した『笈の小文』と似た関係があるが、この壺碑の一条が全くの虚構とは信じられない。全然感動しなかったことを「泪《なみだ》も落《おつ》るばかり也」と書くとは思われない。この一条の書きぶりについては、後に重ねて引用しようと思う。
そのほか、『おくのほそ道』旅行の前半における、歌枕、旧蹟への傾倒ぶりは、一読すれば余りにも明らかなことであるから、ここではこれ以上記さない。それは従来の旅行には見られない熱中ぶりである。
伝統への無条件の没入
ではなぜそんなに、歌枕のような文学伝統に傾倒したか。結論を先にいえば、芭蕉は『おくのほそ道』旅行に出かけるに際して、日本の文学伝統の中に自己を沈潜させようと決意したのではないか。日本の文学伝統の中に自己を浸らせることによって、新たな創造と飛躍の土台にしようとしたのではないか。
すでに述べたように、自己の俳風の停滞を芭蕉は自覚した。「去年の秋より心にかゝりておもふ事のみ多」く(猿雖宛て元禄二年初春書簡)、「此冬は物むつかしく句も不レ出候」(尚白宛て元禄元年十二月五日書簡)という状態は、この自覚と無関係ではあるまい。その停滞からの脱皮を、芭蕉は『おくのほそ道』旅行に求め、脱皮の方法を伝統への沈潜に求めた。丹念な歌枕、旧蹟の探訪は、古典的世界に身を投げかけ、心を委《ゆだ》ねる態度である。
近代人の伝統に対する態度は、これに批判的に対する態度である。伝統のよいところはこれを取り、悪いところは捨てるという態度である。近代というある立場があって、それを尺度にして適宜取捨選択する態度である。賢明といえば、賢明、常識的といえば、常識的である。だが、芭蕉はそんな態度は取らない。無条件に伝統を受け容《い》れようとした。まずともかくも古典的伝統に身を任せようとした。心を潜ませようとした。いわば絶対的随順の態度である。そうすることが伝統を継承する道だと考えた。
始めからある立場をとって、批判的に伝統に対するのは、伝統の受容の仕方ではない。それは伝統の「つまみ喰い」である。うまそうに見えるところだけ食べて、まずそうに見えるところは始めからはしをつけても見ないという態度では、伝統はわからない。伝統の継承はできない。芭蕉は、卑しいつまみ喰いを避けて、ともかくもまず伝統の中に埋没してみようとした。それが『おくのほそ道』旅行の前半における、歌枕、旧蹟の丹念な探訪となってあらわれたものと考えたい。