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芭蕉 その人生と芸術22

时间: 2019-05-21    进入日语论坛
核心提示:足 跡白河の関まできて旅心定まる『おくのほそ道』旅行については、詳説する必要はないようなものであるが、本書の性質上、やや
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 足 跡
 
白河の関まできて旅心定まる
『おくのほそ道』旅行については、詳説する必要はないようなものであるが、本書の性質上、やや解説的に、大体の旅程をまとめてみよう。
 芭蕉は、今まで住んでいた芭蕉庵を売り払い、後援者の杉風《さんぷう》の別荘から出発した。元禄二年(一六八九)晩春の頃で、数え年四十六歳である。隅田川を船でさかのぼり、千住《せんじゆ》で上陸して、そこで見送りの人々と別れた。
 
行春《ゆくはる》や鳥|啼魚《なきうを》の目は泪《なみだ》
 
 この句は、「行く春」が季題である。春がもう去って行こうとしているが、去り行く春の愁いは、人間ばかりでなく、無心な鳥や魚までも感ずると見え、鳥は悲しげになき、魚の眼には涙があふれているようだ、という意味で、去り行く季節のあわれと同時に、人々との離別の悲しみが籠められている。
 こうして芭蕉と曾良は「前途三千里」の旅に出たのだが、それから今の栃木県の大神《おおみわ》神社すなわち「室の八嶋」の明神に参詣したり、日光を見物したり、那須野ケ原を横切ったりして、大関藩の城下黒羽に着き、ここに十数日滞在した。大関藩の城代家老と知り合いだったからである。その間に雲巌《うんがん》寺にも参詣した。大きな、奥深い閑静な寺であった。黒羽を立って、今の那須温泉にある殺生石を見物し、ついで、西行が「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」と歌に詠んだという遊行柳を見物した。遊行柳から白川の関まではすぐである。
 白川の関から向こうは陸奥《みちのく》である。江戸を立ってから、この白川の関まで二十四日かかっている。芭蕉は「心もとなき日数重なるままに、白川の関にかかりて、旅心定りぬ」と書いている。
 
阿武隈川の流れに沿って仙台・松島へ
 それから先は、今の福島県を、東北の方へと歩みを進めたのであって、大体の行程は、阿武隈《あぶくま》川に沿って行くようになる。須賀《すか》川では豪家の主人で、俳人でもある等躬《とうきゆう》(すでに芭蕉が宗匠になる前からの知人で、芭蕉の宗匠立机の興行に際しては「三吉野や世上の花を目|八分《はちふん》」と詠んでいる)を訪ね、七日ばかり滞在し、俳諧の連句を巻いたり、近所へ出かけたりした。
 日和田《ひわた》の宿《しゆく》では、浅香山《あさかやま》を眺め、花がつみをさがし、丹波《にわ》氏の城下町である二本松の町はずれにある「黒塚の岩屋」を一見した。昔、鬼が住んでいたという伝説のある岩屋だが、阿武隈川の氾濫《はんらん》の時運ばれて来た巨岩にちなむ巨岩伝説である。黒塚というのは、その鬼を埋めたと伝えるところで、今も塚の上に杉の木が生えている。
 福島市の郊外にも「しのぶもじずり石」という巨岩があって、伝説が伝わっている。また飯坂温泉の近くの丸山には、源義経に従って討死した佐藤継信・忠信兄弟の住んでいた屋敷跡がある。芭蕉は兄弟の墓のある医王《いおう》寺にも参詣した。飯坂の宿はひどい宿で、芭蕉はよく眠れなかった。
 武隈の松は、今の岩沼の竹駒《たけこま》明神の近くにあって、根元から二本に分かれていた。岩沼から仙台までは近い。名取川《なとりがわ》を渡って仙台に入ったのは、旧暦五月四日の夕方であった。太陽暦に換算すると六月二十日に当たる。白川の関からここまで十二日かかっている。
 仙台では「画工加右衛門」(俳号|加之《かし》)という人を訪ね、この人の案内で方々の名所を見て廻った。仙台から先の名所も、加右衛門が画図を書いて教えてくれた。芭蕉が特に感動したのは「壺碑《つぼのいしぶみ》」という古い石碑が、昔のままの姿で残っていたことである。そのことについては先に述べた。
 野田の玉川・沖の石・末の松山などは、壺碑から塩釜《しおがま》へ行く途中で見た古い歌枕である。
 松島では、ほとんど俳句ができなかった。その代わり、かなり長い文章を書いて、松島の絶景を描写している。苦心の跡のよく解る凝《こ》った文章である。「白川の関」「塩竈」「松島」「象潟《きさがた》」などは、旅行の出発前から、芭蕉が見たいと思っていた名所である。
 
平泉から奥羽山脈を越えて
 松島から石の巻へ廻った。『おくのほそ道』の本文では、平泉へ行くところを、道を間違えて石の巻へ出てしまったように書かれてあるが、お供の曾良の旅日記によると、間違って行ったのではなく、芭蕉は始めから石の巻へ行くつもりだったようである。途中のどが乾いて方々の家で湯をくれと頼んだが、どこでもくれない。困っていると、刀をさした五十七、八歳ばかりの通行人が、気の毒がって知人の家に連れて行ってくれた。
 石の巻から、北上川の河跡湖のほとりの、さびしい道を通り、登米《といま》を経て、一の関に着き、翌日平泉の中尊寺に参詣した。その日はよい天気だったが、前日の、一の関までの道中は「合羽《カツパ》モトオル」程の豪雨だった。
「夏草や兵《つはもの》どもが夢の跡」は、高館《たかだち》から平泉の旧蹟を眺望しての吟である。
 平泉から道を西南にとって引き返し、岩手山に一泊、小黒崎・みづの小島などを見ながら、今の鳴子温泉のそばを通って尿前《しとまえ》の関に出た。きびしい関所をようやく通して貰い、奥羽山脈を越えて裏日本へ出ようとした。山越えの途中では堺田《さかいだ》の農家に泊まったが、あいにく大雨に降りこめられて二晩を過ごすことになった。その時の体験が「蚤虱《のみしらみ》馬の尿《しと》する枕もと」である。その日は旧暦の六月十六日、太陽暦に直すと七月二日であった。
 翌日は快晴になったので、案内人をやとって荷物を持たせ、今の山伐《なた》切《ぎり》峠を越して尾花沢へ出た。尾花沢には島田屋八右衛門という豪家の主人が居り、清風と号して談林時代からの俳人であった。ここに十日ばかり滞在して旅の疲れを休めたり、土地の人々と俳諧を巻いたりしたが、勧められて山形に近い立石寺《りゆうしやくじ》を訪れた。閑静な山寺であった。
 
 日いまだ暮《くれ》ず。麓の坊に宿かり置《おき》て、山上の堂にのぼる。岩に巌《いはほ》を重《かさね》て山とし、松柏《はく》年|舊《ふり》、土石老て苔|滑《なめらか》に、岩上の院々扉を閉《とぢ》て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這《はひ》て、仏閣を拝し、佳景寂寞《かけいじやくまく》として心すみ行のみおぼゆ。
閑《しづか》さや岩にしみ入《いる》蝉の声
 
と『おくのほそ道』には書かれている。ついで引き返して、最上川の川船の船付き場、大石田に至り、新庄を経て、元合海《もとあいかい》より乗船、最上川を下って狩川《かりかわ》で上陸し、陸路羽黒山に着き、南谷《みなみだに》の別院に泊まった。羽黒山には八日間滞在し、この間、月山《がつさん》、湯殿山にも登り、また俳席もつとめた。この地の呂丸《ろまる》に俳諧の教えを説いたことは後述の通りである。羽黒山から鶴岡を経て、酒田におもむき、二泊の後、象潟《きさがた》見物に出かけた。
 
羽越の海岸を通って金沢へ
 象潟は、昔は文字通りの潟湖で、東西一キロ余り、南北三キロ余り、塩越《しおごし》のあたりで海に通じ、湖中には多数の小島が点在する景勝の地であった。「松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり」と『おくのほそ道』には書かれている。象潟を見物したのは旧暦六月十六日(太陽暦八月一日)で、翌日酒田に帰り、二十五日まで滞在して俳事があった。酒田は日本海航路の要港であり、庄内平野を控え、物資の集散地として繁栄していたので、有力な町人が多く、俳諧も盛んであった。
 六月二十五日(太陽暦八月十一日)、酒田の人々に見送られて出立、大山・温海《あつみ》・中村を経て葡萄峠を越え、村上着。この地の藩主榊原家十五万石は曾良と縁があり、城中に上がって筆頭家老榊原|帯刀《たてわき》から百|疋《ぴき》を賜わったりした。
 二泊の後、築地《ついじ》から船で新潟に出、弥彦《やひこ》神社に参拝し、出雲崎《いずもざき》に泊まったのが旧暦七月四日の夜である。「荒海や佐渡に横ふ天河《あまのがわ》」の吟は、この地で想を得、今町(直江津)で発表されたという。直江津・高田で俳席を持ったのち、親不知の険を通って市振《いちぶり》泊が十二日だが、曾良の旅日記には、『おくのほそ道』本文にあるような、遊女と同宿した記事は全く見られない。『おくのほそ道』のこの一条は虚構であろう。
「一家《ひとつや》に遊女も寝たり萩と月」の句も、旅中の吟ではなく、のちに元禄五・六年頃『おくのほそ道』を執筆する際に作ったものと思われる。
 それから「暑気甚シ」い中を、富山県下を歩き、高岡に着いた日は「翁、気色不勝。暑、極テ甚」しい状態であった。しかし翌日|倶利伽羅《くりから》峠を越えて金沢に入った。金沢は北陸随一の城下町で俳諧好きの人も多く、芭蕉の来訪を待っている人々がいた。その一人の一笑《いつしよう》がすでに没していたのは残念なことで、芭蕉は「塚も動け我《わが》泣《なく》声は秋の風」と悼句《とうく》をたむけた。芭蕉は金沢に十日ばかり滞在し、この地の人々の俳諧に加わった。新しく入門する人々も多く、自然、蕉風の指導、蕉門の拡大に及んだ。曾良はこの頃から健康をそこね、療養につとめる毎日だった。
 
終点大垣の歓迎
 旧暦七月二十四日(太陽暦九月七日)金沢を立ち、小松の多田八幡を拝み、山中温泉着が二十七日、この地に八日間滞在し、曾良は療養につとめたが、結局、芭蕉とここで別れることになり、伊勢の長島に一人先行する。
 芭蕉は那谷《なた》寺の石山を見たり、小松に戻ったりしたが、やがて北枝を伴って大聖持《だいしようじ》の全昌寺・吉崎の入江・丸岡の天竜寺とたどり、ここで北枝に別れて、永平寺に詣でたのち、福井に入って古い知人の神戸洞哉《かんべとうさい》を訪ねた。洞哉と共に敦賀に着いたのが八月十四日の夕暮れで、その夜|気比《けい》明神に参詣した。月の美しい夜であった。
 十六日は海路敦賀湾の北端にある色の浜に遊んだが、この地の廻船問屋、天屋五郎右衛門(俳号玄流子)の世話であった。先行した曾良のしらせによって、やがて大垣から路通が迎えに来たので、共に大垣へ着いたのは旧暦八月下旬、多分二十五日前ぐらい(太陽暦十月初旬)であろう。大垣の人々は心から芭蕉を歓迎した。それは芭蕉が優れた芸術家であったことももとよりであるが、また、芭蕉の高潔な人間性に心ひかれた点も多かったのではあるまいか。
 以上が『おくのほそ道』旅行の大体の行程である。それでは、この旅行で芭蕉は何を得たか。この旅行を契機にして芭蕉の文学がどんな新しい展開を示すか。それらの点について考察を進めることにしたい。
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