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芭蕉 その人生と芸術23

时间: 2019-05-21    进入日语论坛
核心提示:不易流行論の工夫歎きつつなお変わらぬものを求めて 先に、『おくのほそ道』旅行の前半、すなわち奥羽山脈を越えて、裏日本の側
(单词翻译:双击或拖选)
 不易流行論の工夫
 
歎きつつなお変わらぬものを求めて
 先に、『おくのほそ道』旅行の前半、すなわち奥羽山脈を越えて、裏日本の側に出る前までのあたりは、歌枕、名所、旧蹟の丹念な探訪の態度が見られ、伝統的世界に対する絶対随順の態度があると述べた。その態度が、裏日本に入って、急に改まったというわけではないが、旅行の前半の伝統への沈潜の中から、芭蕉は人間の営みの中に、変わるものと変わらないものとがあることに考えをめぐらせて行ったと思われる。
 芭蕉が丁寧に訪ね歩いた歌枕、旧蹟の多くは、長い時間の圧迫に抗しかねて、昔日の俤《おもかげ》を十分に存していなかった。芭蕉はそれに対して批判的な言辞は弄《ろう》していない。だが、人間の営みの脆さ、人工的なもののはかなさについて歎かずにはいられなかった。
 
むかしよりよみ置《おけ》る歌枕、おほく語《かたり》伝ふといへども、山|崩《くづれ》、川|流《ながれ》て、道あらたまり、石は埋《うづもれ》て土にかくれ、木は老《おい》て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを……
 
(『おくのほそ道』壺の条)
 
であった。それでも芭蕉は、倦まずたゆまず、僅かに残った遺跡に伝統をさぐろうと努めている。だからこそ、壺碑が千古の形を存しているのを見ては、
 
(前引に続いて)……爰に至りて疑なき千歳《ちとせ》の記念《かたみ》、今眼前に古人の心を閲《けみ》す。行脚《あんぎや》の一徳、存命の悦《よろこ》び、羇旅《きりよ》の労をわすれて、泪《なみだ》も落《おつ》るばかり也。
 
(『おくのほそ道』壺碑の条)
 
と感動してしまうのである。
 平泉における「夏草や兵《つはもの》どもがゆめの跡」の一条にしても、同じく中尊寺の「五月雨の降《ふり》のこしてや光堂《ひかりだう》」(初案は「五月雨や年々降も五百たび」)の一条にしても、伝統的なものへの深い傾倒を背景にしたもので、ただ、所詮伝統といえども人間の所産であり、人間の営みは長い時間の経過の中で、いつかは傷み、崩れてしまうものであることを歎いているのである。逆にいえば、歎きながらも、人間の力を信じたい、変わらぬものがあることを信じたいという気持ちが、光堂に対する讃歎となっている。
 
伝統への沈潜を通して不易流行の論
 すでに述べたように、芭蕉は多くの歌枕、旧蹟をたどり歩きながら、古人の抱いた文学の心に触れ合おうと努めた。能因を思い、西行を慕い、日本の文学や文化を生んだ人々を懐しみ、伝統について考えながら東日本側を歩いた。そうして奥羽山脈を越え、最上川を下って、羽黒山に着き、ここに八日間滞在している間に、伝統の中に変わるものと変わらないものとがあることを、口に出していうようになった。即ち、不易《ふえき》流行の論である。
 芭蕉が羽黒山滞在中、芭蕉の世話をし、また俳諧の指導を受けた人に、呂丸《ろまる》という人物がある。羽黒山下|手向《とうげ》の人で、呂丸は芭蕉から聞いた教えをもとにして『聞書七日草』という本を書き遺した。この書の全部が芭蕉の直接の教示によるものとは思われないし、呂丸が芭蕉の教えを完全に理解し得たかどうかも疑問である(この書の中に支考や支考系の竹童の考えや、また呂丸自身の考えの入っているであろうことについては、諸家の論がある)。だが、この書の中で、芭蕉が呂丸に「天地流行の俳諧あり、風俗流行の俳諧あり」と説き、また「天地固有の俳諧」の語を用いて説いている点は、後に『去来抄』や『俳諧問答』や『三冊子』や、その他の書で述べられる、不易流行論の先駆と考えられる。
 去来は「故翁奥羽の行脚より都へ越えたまひける、当門の俳諧すでに一変す」(『贈晋氏其角書』)といい、また「この年(元禄二年)の冬、はじめて不易流行の教を説き給へり」(『去来抄』)という。芭蕉が不易流行論を説き出したのは、『おくのほそ道』の旅を終え、上方地方に漂泊の間のことである。また旅行の後半、金沢で会った北枝に対しても、不易流行論を語った形跡がある。即ち、北枝の『山中問答』に「不易の理を失はずして、流行の変にわたる」などのことばが見られるのは、金沢から福井の近くまで芭蕉に同行した北枝が、芭蕉から聞いた教えに基づくものであろう。
 こう考えると、不易流行論は、『おくのほそ道』旅行前半の、伝統への深い傾倒の中で芭蕉の胸中に芽生え、奥羽山脈を越え、羽黒山滞在中に、ようやくまとまり始め、旅の後半から、上方滞在中に熟成したと見ることができよう。そうして、不易流行論をこの旅行で得たことが、この後の芭蕉の作風の展開の上で、大きな役割を果たすのである。もっとも逆にいえば、不易流行論をいうようになった根本精神が大切なので、不易流行論そのものが大切なのではない、といってもよい。一たび伝統の中に深く沈潜し、これに心を委《ゆだ》ねたのち、伝統の本質に従いながら、伝統にとらわれない道を発見したのだといってもよい。
 
不易は本質、流行は個性の発現
 不易とは、広く芸術一般について考えれば、時代を超え、種別を超えて、優れた芸術に共通する、ある本質的なものであり、流行はこれに対し、個々の作品のあり方を示すものと考えられる。即ち、一つ一つの具体的作品、一人一人の作家個人は、それぞれに個性的であり、特殊的であるべきもので、そこに時代に則した「新シミ」も生まれる。それが不易に対する流行の意味であろう。
 これを俳諧にあてはめてみても同様であって、時代を超え、作風を超えて、優れた作品にはある共通の本質的なものが顕在する。人が古人の優れた俳諧にも感心し、また現在の優れた作品にも心打たれるのは、そこに何等かの意味に於ける共通のある本質的なものを想定しているからである。それが不易である。しかし、個々の作品が優れた作品であるためには、「古人の糟粕をなめ」(『三冊子』)たり、「貞徳老人の涎をねぶつ」(同上)ていてはだめであって、常に独創的でなければならない。時代と共に動き、「新シミ」を求めなければならない。去来のことばに従えば「此道ハ、心・辞共ニ新味ヲ以テ命トス。是《コレ》、流行ノ句ノ行ルヽ所以《ゆえん》也。能《よく》流行スル時ハ、活々然《くわつくわつぜん》トシテ、万歳ヲ経テ新《あらた》也。久シク留《とどまる》時ハ濁《にごり》テ重シ」(『不玉宛て論書』)ということになる。
 不易流行論は、それだけでは格別新味のある芸術論ではないかもしれない。不易・流行の語は、元来中国に於いて用いられていた語であり、それがわが国に入って、俳諧以外でも以前から用いられている。俳諧でも北村湖春が「不易の風体」(『続の原』)などという語を、句合《くあわせ》の評語に用いた例が指摘されている(志田義秀「芭蕉と俳諧の精神」)。したがって、芸術の中に、変わるものと変わらないものがあると考えることは、それ程独創的な考え方ではないかもしれない。だが、不易流行論の価値は、芭蕉がそれを伝統に沈潜した中から体験的思考として会得したところにある。だから、それは精緻な論理として発展はしなかったが、芭蕉自身の作風の転換、更に言えば、数年前来の作風の沈滞からの脱皮に、大きく貢献したといってよいであろう。
『おくのほそ道』以後の上方滞在中に、芭蕉および蕉風作家の作風が大きく発展したことは、前述の去来の言をまつ迄もなく、実作によって明らかである。その成果が最も端的にうかがわれるのは、元禄四年(一六九一・四十八歳)七月三日に出版された撰集『猿蓑』である。だが『猿蓑』について述べる前に、もう少し『おくのほそ道』旅行後の芭蕉の動静を述べて置きたい。
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