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芭蕉 その人生と芸術24

时间: 2019-05-21    进入日语论坛
核心提示:長旅のあと汚れた紙衾にこめる自戒『おくのほそ道』の旅は、大垣で一応終わりである。大垣は何度も訪れた所で、ここまで来れば門
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 長旅のあと
 
汚れた紙衾にこめる自戒
『おくのほそ道』の旅は、大垣で一応終わりである。大垣は何度も訪れた所で、ここまで来れば門人も多い、故郷へも近い。未知の国への旅は終わった。芭蕉は主に門人の如行《じよこう》の家に泊まり、長旅の疲れを休めたり、門人の誰かれに招かれたりして日を過ごした。しかし、いつまでも大垣に留まっているわけには行かない。漂泊の身にとって長逗留は禁物である。芭蕉は旧暦九月六日、大垣を立って、伊勢へと赴く。
 だが、その前に、大垣滞在中の挿話を一つ二つ紹介して置こう。
 大垣に竹戸《ちくこ》という門人がいた。鍛冶《かじ》工と伝えるから、身分は低かったに相違ない。芭蕉が如行の家に滞在中、その肩をもんだという。芭蕉はその労に報いて、旅行中使用した紙衾《かみぶすま》(紙製のふとん)を彼に与え、なお「紙衾ノ記」という文を草して添えた。
 
(前略)越路の浦、山館野亭の枕のうへには、二千里《じせんり》の外《ほか》の月をやどし、蓬もぐらのしきねの下には、霜にさむしろのきりすを聞《きき》て、昼はたゝみて背中に負ひ、三百余里の険難をわたり、終《つひ》に頭《かしら》をしろくして、みのゝ国大垣の府にいたる。なをも、心のわびをつぎて、貧者の情をやぶる事なかれと、我をしとふ者にうちくれぬ。
 
(『和漢文操』)
 
「なをも、心のわびをつぎて、貧者の情をやぶる事なかれ」という条に注目したい。如行・路通・越人・曾良等は竹戸の幸運を羨み、かつ祝して、それぞれ一文を草した。越人のごときは「此ふすまとられけむこそ本意なけれ」といい、曾良は「いま竹戸にあたへられし事をそねんで、奪《うばは》んとすれど大石のごとくあがらず」と書き、なお「畳《たたみ》めは我が手のあとぞ其衾」と即興に吟じた(『雪のおきな』)。
 竹戸自身も大よろこびで、「翁、行脚のふるき衾を与へらる、首出して初雪見ばや此の衾」(『猿蓑』)と詠み、芭蕉没後の四十九日には、「肩うちし手心に泣く火燵《こたつ》哉」(『後の旅』)と、肩をもんだ折りを想起して悼句をささげている。
 にまみれた、使い古しの紙衾を人に贈ることは礼を失したことである。それは竹戸が身分の低い、貧しい鍛冶工であったからではあろうが、それにしても、他の門人たちのことばを考え合わせて、芭蕉の周囲の人々が、芭蕉を真に師として敬慕するようになっているさまがわかるであろう。
 大垣の門人には、谷木因のような富裕な船問屋の主人もいる。大垣藩士も多い。如行も元大垣藩士である。宮崎|荊口《けいこう》は御広間番を勤め、百石を給せられていた。その三人の子どもたちも、大垣藩士となり、蕉風を学んでいる。浅井左柳・高岡斜嶺・その三弟の怒風・津田前川等や、その他塔山・残香等も大垣藩士と思われ、延宝三年頃に江戸詰め御留守月番(三百石)を勤め、のち次第に累進して千石を給せられたという中川濁子も大垣藩士である。質のよい門人が芭蕉を敬慕するようになったことが解る。もちろん質のよいということは、ただ身分がよいという意味ではない。芭蕉のよさが解る門人という意味である。もう一つ挿話を紹介する。
 
千二百石取りの武家と俳諧師芭蕉
 大垣を出発する日の迫った九月四日、大垣藩の重役戸田|如水《じよすい》は、芭蕉と路通を自分の下屋《しもや》(表座敷でなく)に招いた。そして、その様子を次のように日記に書きのこしている。
 
一、桃青事門弟等ハ芭蕉ト呼ブ如行方ニ泊リ、昨日より本腹《ほんぷく》之旨|承《うけたま》ハルニ付、種々申シ、他者《よそもの》故|下屋《しもや》ニ而《て》、自分病中トいへども、忍《しのび》ニ而《て》初而《はじめて》対面。(中略)両人|咄《はな》シ種々|之《これ》を承《うけたま》はる。多くハ風雅の儀ト云云。如行誘引仕り色々申すと云へども、家中士衆ニ先約|有之《これある》故、暮時《くれどき》より帰り申候。(中略)今日芭蕉|躰《てい》ハ、布裏之|木綿《もめん》小袖(帷子ヲ綿入トス、墨染)細帯ニ布之偏(便)服。路通ハ白キ木綿之小袖、数珠を手に掛クル。心底|斗《はか》り難《がた》けれども、浮世を安クみなし、諂《へつら》はず、奢《おご》らざる有様|也《なり》(読みやすいように書き下し文に改めた)
 
 戸田如水は、藩主戸田氏の血筋を引く、大垣藩の千二百石取り家老次席の身分である。この時芭蕉を自邸に呼んで、共に俳諧の連句を作っているから、俳諧をたしなみ、風雅にも関心はあったと見られる。しかし、家中の人々が師事している、近頃評判の芭蕉という男は、どんな男か会ってみたいというぐらいの気持ちで引見したものであろう。芭蕉も、如行やその他の大垣藩士の門人たちの顔を立てて、しぶしぶ出かけて行ったものであろう。そのことは、如行が戸田如水のところへ芭蕉を案内し、二人の間を取りなしている様子からもうかがわれる。
 如水は夕飯を共にしたいと考え、いろいろいうのだが、芭蕉は約束があるからといって、夕方に辞去している。如水が芭蕉を批評して「心底|斗《はか》り難《がた》けれども、浮世を安クみなし、諂《へつら》はず、奢らざる有様也」と書いているのは、興味深い。如水は、多少風雅に関心があるとはいえ、芭蕉が他国者だというので表座敷に上げず下屋《しもや》で会うぐらいの、典型的な、世間的常識人である。その常識人の眼に、芭蕉は、浮き世を安く見なしている人間として映った。
 常識人は、世間を大事に考え、生活を第一とする。実事を、現実を重く見る。これに対して芭蕉は、いわば反対の極点に立っている。芸術を第一に考え、生活や、世間を、芸術に従属させようとしている。虚事を重く見、実事を軽んずる立場である。虚事のために実事があるので、実事のために虚事があるのではないと考える。芸術的であることが真に充実した人生であるのであって、芸術のない人生は、動物同様の、非人間的人生だと考える。如水の眼に、芭蕉が浮き世を安く見なしている人間として映ったのは、また当然というべきであろう。そこには多少の軽侮と、また無意識的ではあるにせよ、多少の羨望があるように見える。
 如水はおそらく、毎日を世間大事と考えて生活している。他国者と会う時は、それが近頃評判の俳諧師であっても、上屋にはあげないで、下屋で会うぐらいの細心の配慮をしながら暮らしている。上役には時に諂《へつら》い、下役には時に威張って生きている。もちろん、そうして世の中を大事にして毎日を過ごすことも、千二百石取りの重役なら重役なりに、気苦労の多いことであろう。芭蕉を見る如水の眼に、軽侮と共に多少の羨望の色があったとしても不思議ではない。芭蕉には如水のもたない自由がある。如水のように始終世間体を気にする必要がない。誰に媚《こ》び、諂《へつら》う必要もない。自分の好む道を、自分の考えた通り歩いて行ける。芭蕉の道は、自由人の道である。
 だが、その代わり、芭蕉は自由の代償に、世間的な実利を捨てた。世間的な意味での艱難な道をみずから選んだのである。五十歳も近いというのに、家もなく、財もなく、家庭もない、苦しく、さびしい道をあえて選んだのである。高価な代償を払った芭蕉の態度が、代償を払わない如水の眼に、「浮世を安クみなし」ているように見えたのは、当然のことである。
 如水は翌日、芭蕉に南蛮酒一樽・紙子二表を贈った。何となく心|惹《ひ》かれるものがあったのであろう。もっとも一面には、千二百石取りの重役として、俳諧師を招いて、何も取らせずに放って置くわけにもいかないという、常識人としての配慮が働いていたこともあるであろう。
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