年頭の句に乞食を詠みこむ
九月六日、芭蕉は川船に乗って大垣を立ち、長島を経て、伊勢に出た。伊勢神宮の外宮の遷宮を拝し、折りから来合わせた伊良湖岬の万菊《まんぎく》(杜国)・江戸の李下《りか》・伊賀上野の卓袋《たくたい》・大石田で入門した一栄《いちえい》等の門人に会い、また才丸《さいまろ》や信徳《しんとく》等の他派の俳諧宗匠たちにも会った。北村季吟もこの時伊勢参宮に来ていたが、芭蕉は季吟に会った形跡がない。もうこの十数年の間に、季吟との間柄は疎遠になっていた。浮き世を安く見なさない季吟の道と、浮き世を安く見なす芭蕉の道とは、余りにも隔たり過ぎてしまったというものであろう。
伊勢から久居《ひさい》を経て故郷へ帰る山中で、芭蕉は「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」の句を得た。後に『猿蓑』の巻頭に据えられた句である。故郷の兄の家に入ったのは、旧暦九月下旬(この年は九月二十四日が立冬)で、多分、立冬直後のことであろう。
故郷の人々は芭蕉を争って迎えた。芭蕉はもう風雅の道の有名人である。芭蕉が若かりし頃仕えた藤堂新七郎家の良忠の子良長が、今は家を継いで俳号を探丸といい、滞在中、芭蕉を下屋敷に置いてもよいと申し出たくらいである(探丸は前年の三月にも芭蕉を下屋敷に呼んで花見の句会を催している)。次々と人々が訪れ、俳席も多かった。しかし、余り長く兄の家に厄介になっているわけにもいかない。京都や近江の門人たちにも会いたい。芭蕉は十一月末には故郷を出て、奈良・大津・京都などの門人の家を泊まり歩き、膳所《ぜぜ》で元禄三年の正月を迎えた。四十七歳の正月である。この間、『おくのほそ道』旅行中に工夫した新しい俳諧を説き始めたことはもちろんである。
何に此《この》師走《しはす》の市にゆくからす 翁
(『花摘』)
長嘯《ちやうせう》の墓もめぐるかはち敲《たたき》 翁
(『いつを昔』)
知(智)月という老尼《らうに》のすみかを尋《たづね》て
少将のあまの咄《はなし》や志賀《しが》の雪 ばせを
(『奉納集』)
などは、十二月歳暮の吟であり、
みやこちかきあたりにとしをむかへて
こもをきてたれ人ゐます花の春
(真蹟)
は歳旦吟である。歳旦吟に菰冠《こもかぶ》り(乞食)のことを詠むとは、歳旦吟にふさわしくないといって、京都の宗匠の中にはこの句を批難するものがいた(書簡)。世間通俗の宗匠からいえば、おめでたい句を詠むのが歳旦吟の習わしで、それに乞食を詠みこむのは批難すべきことである。だが、芭蕉の胸中には、乞食の境涯が風雅の道の究極として描かれている。実事を捨て切れば乞食になるのである。だから、乞食を歳旦吟に詠むことは一向差し支えないことであった。
この句を詠んだ芭蕉の胸中に、西行のことが念頭にあったことを、芭蕉みずから記している(此筋、千川宛書簡)。また正月二日付けの荷兮《かけい》宛て書簡に「四国の山ぶみ・つくしの旅路、いまだこゝろさだめず候」と、四国・九州旅行について心迷っているさまが報ぜられている。
京と湖南に愛着して丸二年をすごす
望湖水惜春
行《ゆく》春を(初案は「や」)近江の人とおしみける 芭蕉
(『猿蓑』)
の句を得たのは三月である。この句については『去来抄』に有名な話がある。門人の尚白が「行春を」を「行歳《ゆくとし》を」に、「近江」を「丹波《たんば》」にしてもよいではないかと、いわゆる「ふる」「ふれぬ」の議論を展開したのである。有名な話だから、ここでは深入りをしないが、去来のことばの一節だけを紹介して置こう。
行歳《ゆくとし》近江にゐ給はゞ、いかでか此感ましまさん、行春《ゆくはる》丹波にゐまさば、本より此情うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、真成哉《まことなるかな》。
この去来のことばに対して、芭蕉は非常によろこんで「去来よ、お前は共に風雅を語るに値する人間だ」といったという。芭蕉が、琵琶湖のほとりの春色を愛したことは疑いない。この外にも同じ頃「四方より花吹入《ふきいれ》てにほの波」(『白馬』)の句を作っているし、春といわず、四季折り折りの近江の風光を愛していたことは、多くの作品に示されている。
元禄二年九月下旬に故郷に帰ってから、元禄四年九月二十八日に帰東の途につくまで、ちょうど二年間、芭蕉は主として上野・京都・湖南(琵琶湖南岸の地方)に滞在している。京都と湖南地方は近いから、行ったり来たりしている。上野は故郷だから当然のこととして、京都・湖南地方に、有力な門人の多かったことが、直接の原因であるに相違ないが、また、この地方を芭蕉が愛していたことも付け加えるべきであろう。
俊秀、幻住庵に陸続と集まる
元禄三年三月の半ば過ぎに上野から湖南の地に出た芭蕉は、四月六日|国分《こくぶ》山麓の幻住庵《げんじゆうあん》に入った。そこは、琵琶湖から流れ出ている瀬田川のほとりの、石山寺よりもっと奥に入ったところである。幻住庵に入ってすぐ書いた如行《じよこう》宛て四月十日付けの手紙の中に、その様子が次のように書かれている。読みやすく書き直すと、
今度住んでいる所は、石山寺のうしろ、長柄《ながら》山の前にある、国分山というところで、幻住庵という破れ小屋です。あんまり静かで、またあたりの風景がおもしろいので、これにだまされて、四月のはじめに入庵しました。しばらくここで残生を養うつもりです。(中略)ここは愚老のような不才の者には、おごり過ぎたところです。けれども(気候がきびしく)、雲霧山気が病身にこたえ、鼻かぜにかかっていますので、とても秋の終わりまではがまんできそうにもありません。からだがひ弱ですので、薪を拾ったり、清水を汲んだりする事が辛くて、残念なことです。
なおこの手紙には、四国・九州旅行を断念したことも書いてある。健康に自信がなかったからであろう(後年に、また四国・九州旅行の希望を述べているところをみると、健康が回復したら行きたいという気持ちはあったらしい)。
芭蕉はこの幻住庵に旧暦七月二十三日まで滞在した。この間、湖南・京都はもとより、各地から俳人が来訪し、芭蕉自身もしばしば山を下りて門人を訪ねている。幻住庵滞在中の訪問者を、「几右日記」等によって挙げてみると、野水《やすい》・凡兆《ぼんちよう》・如行《じよこう》・市穏《しいん》・越人《えつじん》・珍碩《ちんせき》(洒堂《しやどう》)・曲水《きよくすい》・去来《きよらい》・千那《せんな》・野径《やけい》・里東《りとう》・乙州《おとくに》・怒誰《どすい》・探志《たんし》・元志《げんし》・泥土《でいど》・史邦《ふみくに》・正秀《まさひで》・柳陰《りゆういん》・朴水《ぼくすい》・何処《かしよ》・之道《しどう》・及肩《きゆうけん》・尚白《しようはく》・木節《ぼくせつ》・智月《ちげつ》・昌房《しようぼう》・等哉(洞哉)・北枝《ほくし》・秋之坊《あきのぼう》等々であり、もちろんこの外にもあったことと思われる。支考は一時同居していた。
元禄二年末から三年・四年にかけて、芭蕉の高風を慕って入門する門人は陸続とあとを絶たず、それらの人々は芭蕉の直接の教示を得て急速に才能を伸ばした。右の人々の外にも、丈草の入門は元禄二年末か三年と思われ、支考の入門も元禄三年である。ことに、湖南・京都の人々は、乾いた土が水を吸うように芭蕉から学び、蕉風は伸びて行った。それは、芭蕉の側からいえば「近年不覚俗情にしみ申候」(六月十五日付け乙州宛て書簡)であったが、この地方の門人たちにとっては、芭蕉に親しむ絶好の機会であった。芭蕉自身も、才能のある門人たちにとり囲まれて、一層工夫するところがあったに相違ない。
『猿蓑』所収の「幻住庵記」成る
「さび」について芭蕉が説き出したのもこの時期で、京都・湖南・上野の門人たちに示したものであろう。それは「さび」についての説が、江戸の門人たちの口からはほとんど聞かれず、去来や土芳や支考のような、元禄三、四年頃特に芭蕉に親しんだ門人たちによって説かれていることからも推測される。
そんな情勢の中で、まず湖南の人々を中心にした蕉門撰集『ひさご』の編集が、珍碩によって進められた(八月十三日刊行)。『猿蓑』の編集も、去来・凡兆によって企図された。これらの編集には、芭蕉が多くの助言を与え、協力を惜しんでいない。
芭蕉自身も幻住庵を出る直前(七月二十三日出庵)「幻住庵記」の草稿を脱稿した。芭蕉の俳文の代表的な傑作として著名であるから、多くは述べないが、推敲に推敲を重ねた文であることは、去来宛て書簡によっても明らかであり、また今日知られるいくつかの草稿によっても察せられる。『猿蓑』所収の定稿が成ったのは八月であるが、その文末を掲げてみよう。
かくいへばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡をかくさむとにはあらず。やゝ病身人に倦《うん》で、世をいとひし人に似たり。倩《つらつら》、年月の移《うつり》こし拙《つたな》き身の科《とが》をおもふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏籬祖室《ぶつりそしつ》の扉《とぼそ》に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情《じやう》を労して暫く生涯のはかり事とさへなれば、終《つひ》に無能無才にして此一筋につながる。楽天《らくてん》は五臓の神《しん》をやぶり、老杜《らうと》は痩《やせ》たり。賢愚文質のひとしからざるも、いづれか幻《まぼろし》の栖《すみか》ならずやと、おもひ捨《すて》てふしぬ。
先《まづ》たのむ椎《しひ》の木も有《あり》夏木立
(『猿蓑』)