日常生活の中の詩情を具体的に詠む
ともかく芭蕉は、七月二十三日に幻住庵を出て、やがて大津の義仲寺の草庵を当分の根拠地とするようになった。正秀の世話だろうという。
湖南地方の蕉門は、すでに貞享二年から入門している尚白・千那や、早く江戸で入門した曲水等が古参であるが、あとから入門した珍碩(洒堂)・正秀・乙州等がぐんぐん頭角をあらわし、芭蕉は尚白・千那等の古参門人と、珍碩・正秀・乙州等の新進門人との調整にも心を配らなければならなかった。しかし、前述の通り、芭蕉は常に前進を心掛けている。『おくのほそ道』旅行前と旅行後とでは、俳風におのずから異なったものが出て来ている。その変化発展に十分ついて行けない古参門人よりも、新進の門人の方を、芭蕉はつい身近に考えてしまうのであった(そこに、翌元禄四年に至っての、尚白・千那の芭蕉離反がある。荷兮・越人等名古屋の門人たちが、元禄四、五年頃から離反の姿勢を示すのも、原因の根本はそこにある)。
芭蕉自身は、義理・人情を無視しているわけではない。だが、生活を芸術本位にする以上、つまり芸術あっての生活と考えるからには、自分の芸術の進歩についてくることのできない門人は、置いて行くより外に仕方がない。いや、できるだけ手をさしのべようとはしているのだが、どうしても自分の新しい芸術観(それはまた、直ちに人生観につながるのだが)に共鳴する門人を接近させてしまう。京の凡兆が、元禄三年入門するや、急速に芭蕉に親炙し、たちまち蕉門の中に頭角をあらわし、去来と並んで『猿蓑』の撰者となったのも、右に述べた事情と無関係ではあるまい。芭蕉は前進する自分について来る新しい門人を愛さずにはいられなかったのであろう。
凡兆は、芭蕉に会い、その指導を受けるまでは凡庸《ぼんよう》な句を作っていた。芭蕉に接するや、心から芭蕉に傾倒し、俳諧に没頭し、ぐんぐんと俳境を深めて行った。芭蕉は凡兆のひたむきな俳諧精神を高く評価し、たちまちのうちに心を許し合う師弟となった。凡兆の性格は「剛毅な」(『猪《い》の早太《はやた》』)ところがあり、芭蕉に対しても自分の意見をどんどんと遠慮なくいう。作風からいえば、芭蕉と相|容《い》れない一面もある。それにもかかわらず、芭蕉は凡兆を愛さずにはいられなかった。
凡兆の作風には、従来の和歌・連歌の伝統的情趣を、ずばりと切り捨てたところがある。
「時雨るゝや黒木つむ屋の窓あかり」「門前の小家もあそぶ冬至《たうじ》かな」「すゞしさや朝草門ンに荷《にな》ひ込《こむ》」「市中は物のにほひや夏の月」(『猿蓑』)などを見ても、古い和歌的情趣を全く払い捨てて、日常的生活の中に清新な詩情を発見し、これを具体的・即物的に掴んでいる。芭蕉が『おくのほそ道』旅行の後に向かおうとしたのは、正にそのような道であった。
『猿蓑』の撰者になぜ去来・凡兆を選んだか
川かぜや薄《うす》がききたる夕すゞみ 翁
(『己が光』)
桐《きり》の木にうづら鳴《なく》なる塀《へい》の内 芭蕉
(『猿蓑』)
海士《あま》の屋は小《こ》海老《えび》にまじるいとゞ哉 芭蕉
(『猿蓑』)
これらは元禄三年の芭蕉吟である。凡兆の方向と一脈通うものがあろう。もっとも芭蕉は凡兆よりもっと幅が広いから、「海士の屋」の句とほとんど同時に、
病鴈《やむかり》の夜さむに落《おち》て旅ね哉 芭蕉
(『猿蓑』)
の句を作っている。芭蕉が、去来・凡兆に対し、この二句のうち、どちらかを『猿蓑』に入れるよう申し入れたところ、凡兆は「病鴈《やむかり》はさる事なれど、小《こ》海老《えび》に雑《まじ》るいとど(えびこおろぎ)は、句のかけり・事あたらしさ、誠に秀逸の句也」として「海士の屋」の句を推した。去来は「小海老の句は珍しといへど、其物を案じたる時は、予が口にもいでん。病鴈《やむかり》は、格高く趣かすかにして、いかでか爰《ここ》を案じつけん」(『去来抄』)といって、「病鴈」を推した。
去来・凡兆の、それぞれの傾向がうかがわれておもしろい話だが、芭蕉には、去来・凡兆両方の傾向を包容するものがある。だから芭蕉は、去来に対しては「俳意|慥《たしか》に作すべし」といい、凡兆に対しては「俳諧も流石《さすが》に和歌の一体也。一句にしほりの有様《あるやう》に作すべし」(『去来抄』)と教えた。
芭蕉が凡兆に『猿蓑』の撰者の地位を許したのは、入門日なお浅い門人ではあるが、凡兆的傾向が、蕉門に新しい刺激となることを期待したものであろう。もちろん、凡兆だけでは、たとい芭蕉の後援があっても、撰集を編むことは無理である。京都蕉門の古老であり、篤実な性格を以て人望のある去来を主にし、これに凡兆を配して『猿蓑』の編集に当たらせたことは、芭蕉の意のあるところと見てよい。
こうして『猿蓑』の編集は着々と進んだ。去来と凡兆は頻々と会合し、芭蕉もしばしば同席した。だが、『猿蓑』について述べる前に、元禄三年秋から元禄四年前半の芭蕉の動静について簡単に触れて置こう。
やむをえない帰東延期のうちに
芭蕉はいい加減で関西漂泊の生活を打ち切り、江戸へ戻ろうという気持ちがあった。すでに幻住庵にいた頃からその気持ちはあったもので、七月十七日付け牧童宛て書簡の一節に「東之方ちかくへそろとたどり可レ申かとも存候」とあるし、同年九月二十五日付けの芭蕉宛て杉風書簡には「寒気にむかひ、御下りも嬉しながらも、又気遣にも御座候。とかくよく御養生被レ成、道中別儀無レ之之様にて御下り可レ被レ成候」とあり、またその翌日の芭蕉宛て曾良書簡等によっても、帰東の意を芭蕉が江戸へいってやっていることが察せられる。
しかし、一つには芭蕉の健康がとかくすぐれないことと、もう一つには、江戸の住居の問題があって、芭蕉は帰東に踏み切れないでいた。
江戸の最も有力な後援者である杉風の家の、事業上の金融がかなり逼迫《ひつぱく》していて、芭蕉庵の再入手が円滑に進まないのであった。それらのことは前掲杉風・曾良の書簡によって察せられる。
結局、芭蕉は帰東を延期し、翌年の秋まで上方地方に漂泊の日を送る。義仲寺に草庵を借りて入って間もなく、八月十三日には前述の『ひさご』(珍碩編)が刊行され、八月十五日の中秋名月の夜には、門人たちが集まって月見の宴を催した。九月下旬には堅田に遊び、前掲「病鴈《やむかり》の」の句と「海士《あま》の屋は」の句を得たが、かぜを引いて「さんざん」であった。九月末に上野へ帰ったが、十一月には京都へ出、元禄四年の正月は大津の乙州宅で迎えた。四十八歳である。乙州が江戸へ旅立つのに餞《はなむけ》として、
餞乙州東武行
梅若菜まりこの宿《しゆく》のとろゝ汁 芭蕉
(『猿蓑』)
と詠んだが、これも『おくのほそ道』旅行後の新風に属しよう。
正月十日頃に帰郷し、三月下旬まで滞在した。郷里の人々はこの時とばかり芭蕉を取り囲んだ。正月十九日付け正秀宛て書簡に「爰元《ここもと》も人々とり付《つき》候|而《て》、此返事之内も、同名(兄、松尾半左衛門)が茅屋《ぼうおく》の中へ大勢|入込《いりこみ》候|而《て》、……」とあり、二月二十二日付け怒誰《どすい》(曲水の弟)宛て書簡にも「旧友、風情《ふぜい》之輩、せつき申候|而《て》、よほどやかましく御座候間、来月出京可レ致と心掛《こころがけ》申候へども、いろのがれぬ事ども仕出《しで》かし、夏秋までも可《とどむ》レ留《べく》、たくみいたし候」という有り様であった。
『猿蓑』に作品の載る伊賀の作者だけでも、土芳《どほう》・猿雖《えんすい》・半残《はんざん》・車来《しやらい》・卓袋《たくたい》・風麦《ふうばく》・良品《りようぼん》・荻子《てきし》などを始めとして二十八人に及び、中には蝉吟《せんぎん》・探丸《たんがん》父子も入集している。土芳は最も芭蕉に親炙《しんしや》し、芭蕉からも愛されていた。芭蕉没後、元禄十六年頃に、有名な『三冊子《さんぞうし》』を著《あら》わしたが、それは芭蕉の示教をもとにし、なお自己の見解をも付け加えた俳論書である。
『嵯峨日記』・『笈の小文』
さて芭蕉は、三月下旬奈良を経て京都に出、初夏四月十八日に嵯峨の落柿舎《らくししや》に入り、五月四日まで滞在、この間に日記をつけて『嵯峨日記』が成った。落柿舎は、今日の落柿舎とは別で、「芹《せり》川のほとり也。野の宮へ行《ゆく》道の角《すみ》屋敷也」(『岡崎日記』)で、もと富豪の別荘だったのを去来が入手したものである。
『嵯峨日記』は、日記といっても、毎日の事実の記録を旨としたものではない。芸術としての事実の記録であって、したがってそれ自体が文学作品である。文学作品たることを意識してつけられた日記である。芸術的生活こそが真の人間的生活であると考え、それを実践しようとしている芭蕉が、その生活を記録すれば、当然それは芸術的作品になるべきはずのものである。だから、四月十八日の記事は全体の序にあたるように書かれ、五月四日は結びとして序に呼応し、「五月雨《さみだれ》や色帋《しきし》へぎたる壁の跡」の句を以て終わっている。その間、全体として繁簡を適当に配慮し、自他の句を挿入し、生活即風雅の状を記している。
この滞在中に「幻住庵《げんぢゆうあん》にて書捨《かきすて》たる反古《ほんご》を尋出《たづねいだ》して清書」したなどの記事もあるから、人の来ない時は句文の創作に耽ったりもしたであろう。『おくのほそ道』を書かねばならないと思ったり、その前に『笈の小文』を完成させなければとも思ったことであろう。
『笈の小文』を現存の形までまとめたのは、多分このころか、せいぜい五月二日までではあるまいかと想像される(少なくとも、前年の九月以後、今年の九月までの間だが、『三冊子』に「或年の旅行、道の記すこし書るよし物がたり有」と土芳に語ったのは、今年の一月から三月までの上野滞在中かと思われ、するとその時は、『笈の小文』はまだ「すこし」しか書かれていなかったことになり、落柿舎滞在中には、十分書く暇がありそうにもないので、そのあと六月から九月までの間、主として義仲寺の草庵で書いたのではないかと想像してみたが、その後前記のように限定すべきだと考えるに至った。拙稿「笈の小文の執筆と元禄四年四月下旬の芭蕉」〈連歌俳諧研究三十八号〉参照)。
また落柿舎滞在中、去来・凡兆の二人がしばしば訪れていることは、『猿蓑』の編集がようやく熟して来ていることを思わせる。
落柿舎を出てから、芭蕉は凡兆宅へ移り、六月十日頃まで滞在するが、五月二十三日付け正秀宛て書簡に「爰元《ここもと》わりなき集の内相談にて紛《まぎれ》候|而《て》……」とか、五月二十六日の曾良日記に「集ノ義取立、深更ニ及《オヨブ》」などの記事もあることから考えて、五月末頃までに『猿蓑』の大体の原稿はできたと思われる。七月三日『猿蓑』出版。