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芭蕉 その人生と芸術27

时间: 2019-05-21    进入日语论坛
核心提示:『猿蓑』と新風旅行後の蕉風の代表的句集 ようやく『猿蓑』について語る順序になった。丈草は『猿蓑』に跋を書いて「猿蓑は芭蕉
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 『猿蓑』と新風
 
旅行後の蕉風の代表的句集
 ようやく『猿蓑』について語る順序になった。丈草は『猿蓑』に跋を書いて「猿蓑は芭蕉翁滑稽の首《しゆきやう》なり」(原漢文)といい、去来は「猿蓑は新風の始《はじめ》」(『去来抄』)といい、まだ一句も入集していない支考も、後に「猿蓑集に至りて全く花実を備ふ。是を俳諧の古今集ともいふべし」(『俳諧発願文』)といい、同じく許六も「俳諧の古今集也。初心の人、去来が猿蓑より当流俳諧に入るべし」(『宇陀法師』)といっている。『おくのほそ道』旅行中の芭蕉の工夫をもとにした、旅行後の蕉風の代表的句集といってよいであろう。其角が序文のはじめに「俳諧の集つくる事、古今にわたりて此道のおもて起《おこす》べき時なれや」というのも、正にこの時期に蕉門にあるべき句集が出現したことを意味している。
 作者総計百十八人(発句の部に百八人)のうち、蝉吟《せんぎん》(故人)・露沾《ろせん》・等哉《とうさい》(洞哉)等を除けば、ほとんどが蕉門の作家で、当時の蕉門の有力作家は網羅されているといってよい。逆にいえば、百人を少し越すぐらいが当時の蕉門の勢力だったということにもなる。もちろん、入集に至らない初歩的門人が外に相当数いたことはいうまでもない。中で、京・湖南地方や伊賀の門人が多いのは、編集の土地や編者や時期からいっても当然のことであるが、江戸の門人の句も多く、また尾張・美濃・長崎・加賀等や、『おくのほそ道』旅中に入門した酒田の不玉など、作者は全国にわたっている。今、試みに有力作家の例句を一句ずつ挙げてみよう。
 
初時雨猿も小蓑をほしげなり    芭蕉
はなちるや伽藍《がらん》の枢《くるる》おとし行く   丹兆
鉢たゝき来ぬ夜となれば朧なり   去来
此木戸《このきど》や鎖《ぢやう》のさゝれて冬の月    其角
出替《でかはり》や幼ごゝろに物あはれ     嵐雪《らんせつ》
みちばたに多賀《たが》の鳥井《とりゐ》の寒さ哉   尚白
幾人《いくたり》かしぐれかけぬく勢田《せた》の橋   丈草
鳩ふくや渋柿原の蕎麦《そば》畠《ばたけ》      珍碩《ちんせき》
唇《くちびる》に墨つく児《ちご》のすゞみ哉      千那
鑓持《やりもち》の猶振り立つるしぐれ哉    正秀
鳥共《ども》も寝入ってゐるか余吾《よご》の海   路通
広沢《ひろさは》やひとり時雨《しぐ》るゝ沼太郎    史邦
かげろふやほろ落つる岸の砂  土芳
ひね麦の味なき空や五月《さつき》雨《あめ》     木節
終夜《よもすがら》秋風きくや裏の山       曾良
手を懸《かけ》ておらで過行《すぎゆく》木槿《むくげ》哉     杉風《さんぷう》
塩魚の歯にはさかふや秋の暮    荷兮《かけい》
はつ市や雪に漕《こぎ》来る若菜船     嵐蘭
うらやましおもひ切《きる》時猫の恋    越人
 
等々である。ただし、其角・嵐雪・杉風・嵐蘭等の江戸作家や、荷兮・越人等の尾張の作家などに比し、湖南・京・伊賀等の門人に佳句が多く、進歩の跡が著しいのは、元禄三、四年の芭蕉の直接の指導を受けた結果であろう。
 
観念的な句を「重み」として排斥
 芭蕉がこの頃、旧套を排し「新意」を志していたことは、例えば元禄四年三月九日付け去来宛て書簡に「独吟新意|明《あきらか》に顕《あらはれ》候。殊の外よろしく候」とか、「惣体《そうたい》新意を心|指所《ざすところ》、ほのぼのと見え候|而《て》、先《まづ》よろしき方に可レ評にや」とかいう評言の一節などによっても明らかで、去来の「不玉宛論書」に、「新シミ」が強調されているのも、去来が、この頃の芭蕉の教えを体して書いたからであろう。『おくのほそ道』旅行中の不易流行論の発明は、おのずから「新シミ」を求めることを要求することにつながり、それはまた大時代的な、風雅ぶった風雅でなく、即物的・生活的・日常的な把握の方向に向かって行く。この頃の芭蕉の作、
 
桐の木にうづら鳴《なく》なる塀《へい》の内   芭蕉
 
(『猿蓑』)
 
について、芭蕉自身が「いさゝか思ふ処ありて歩みはじめたる」(『三冊子』)方向である旨を語ったというが、即物的・日常的なもののうちにある閑雅な情を、芭蕉は考えていたように思われる。それは、元禄四年二月二十二日付け珍夕(碩)宛て書簡に、土芳の「庭興 梅が香や砂利|敷《しき》流す谷の奥」の句を掲げ、「今おもふ所に聊《いささか》叶《かなひ》候へば書付|進《しんじ》候」と記していることと符節《ふせつ》を合わせるものがある。
 前掲の、元禄四年三月九日付け去来宛て書簡の別のところに、「雛《ひな》扨《さて》感悦申候。五文字も少《すこし》心ゆかぬやうには御座候へ共《ども》、心を付《つけ》、置《おき》候ば、若ゑびす、人の代や、と云《いふ》たぐひに成《なり》候間、気付《きつけ》可被下候。其まゝ御|用《もちひ》可然《しかるべく》候|半歟《はんか》」とあるのは、去来の「振舞《ふるまひ》や下座《しもざ》になほる去年《こぞ》の雛《ひな》」の句に対する批評であって、「振舞や」というはじめの五文字が、すこし不十分だが、それを直そうとして重いことばを置き過ぎると、信徳の「人の代や 懐《ふところ》に在《ます》若ゑびす」(『団袋』)の句のように観念的な、浅い句になってしまう、だから多少不十分だがそのままにしておけ、という注意である。
『去来抄』によると、去来は「古ゑぼし」とか「紙衣《ぎぬ》や」とか、「あさましや」「口をしや」などいろいろと、初めの五文字を置きかえてみたらしい。しかし芭蕉は、去年の雛が今年の新しい雛に座を譲って下座に移るところはよいとしても——そこまでは即物的・日常的である——それを直ちに世の中の新旧勢力の隆替や、人生の相などの比喩とする詠み方に反対しているのであって、この素材はそうなり勝ちな性格を持っているだけに、芭蕉は特に注意を与えているのである。そのような観念的な詠み方を芭蕉は「重み」として非難している。
 そのことは、『去来抄』の次のような一節によっても明らかである。
 
日常性の具象化を通じて人生表出を期待
 
君が春|蚊屋《かや》はもよぎに極《きはま》りぬ   越人
(前略)越人が句……又おもみ出《いで》来たり。此句、蚊屋《かや》はもよぎに極《きはまり》たるにてたれり。「月影」「朝朗《あさぼらけ》」などと置《おき》て、蚊屋の発句となすべし。其上に、かはらぬ色を君が代に引かけて、歳旦《さいたん》となし侍るゆへ、心おもく句きれいならず。(下略)
 
 越人の句の大意は、蚊帳《かや》の色がいつも萌黄《もえぎ》色に決まっていて変わらぬように、君が代も変わることなく栄えるめでたい新春だと、いうのであるが、芭蕉はそのような観念的な詠み方を「重み」として非難している。蚊帳は萌黄《もえぎ》色にきまっているというだけで十分なので、あとは「月影や」とか「朝ぼらけ」とかいうような五文字を上に置いて、観相的なところのない、日常的・即物的な句とせよという。浅い人生観照の句、露骨な風流ぶった句、それらを芭蕉は重みとして排斥した。凡兆が『猿蓑』に於いて四十一句の多くを収録されたのも、重みを嫌うこの当時の芭蕉の考えに、凡兆の傾向が合致していたからである。
 名古屋の荷兮・越人・野水等の一派は重みを脱し切れなかった。そこに彼等の芭蕉離反の原因の根本があることは前にも述べた。
 明治の正岡子規は、旧派の月並み調を批判し、月並み調が「往々智識に訴へんと欲す」(『俳句問答』)として、例えば「屋建つる隣へは来ず初《はつ》乙鳥《つばめ》 鶯笠」のごときは、つばめが隣の金持ちの家へは来ないで、貧しいわが家へ来ることを、初つばめは富を喜ばず、貧を愛する、という知的判断によって詠み、一種の観相的なものがあることを非難し、その点が自分たちの新しい俳句との「根底よりの相違」だとしている。子規はまた芭蕉の句に理屈による作為が多いことを批判しているが(『芭蕉雑談』)、しかし、芭蕉がこの元禄三、四年に主張しているところは、子規の旧派月並み調排斥に、一脈相通ずるところのあるものである。子規が凡兆を賞めているように、芭蕉も凡兆を推重している。子規が理屈の句を排斥しているように、芭蕉も浅い観念句を極力排斥している。ただ、芭蕉が子規のような写生に行かなかったのは、即物的・日常的・情景的であることを主張しながら、単にその段階でとどまらず、それがおのずから自己の人生的なものと深い底の方でつながることを期待していたからである。それを「象徴」というなら、そういってもよいであろう。
 何度も述べて来たように、芭蕉は生活と芸術とを一体化させようとして来た。生活を芸術に献身して来た。芸術の中に日常性を埋没させている。そういう作者が、即物的・日常的・情景的作品を作れば、表層には作者その人の観相はあらわれないとしても、またあらわすべきでもないが、深層に於いて作者の人生的なものがおのずから滲み出て来るはずである。そのような期待が芭蕉にはあった。これから後、「重み」を排し、従って「軽み」を強調することになる芭蕉ではあるが、晩年の作品は「軽み」であって、しかも一種の人生的なものが根底にある。だが、それを説く前に、この頃書かれた『笈の小文』の芸術論を紹介する必要があろう。
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