花や月を通じて物を見るこそ真人間
西行《さいぎやう》の和歌における、宗祇《そうぎ》の連歌における、雪舟《せつしう》の絵における、利休《りきう》が茶における、其|貫道《くわんだう》する物は一《いつ》なり。しかも風雅におけるもの、造化《ざうくわ》にしたがひて四時《しいじ》を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像《かたち》、花にあらざる時は夷狄《いてき》にひとし。心、花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出《いで》、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。
(『笈の小文』)
有名な一節であるが、元禄三、四年頃にこの一節が書かれたことは意味深いものがある。像《かたち》が花でない人間、心が花でない人間とは、生活が芸術化されていない人間ということである。そのような人間は、人間といっても野蛮人(夷狄)か、鳥獣の類で、真の人間ではない、と芭蕉はいう。見る所、思う所が、花や、月ばかりである人間、花に於いて物を見、月に於いて物を考える人間、花や月を中心にして物を見、物を考える人間、そういう人間であって始めて真の人間である。生活が風雅(芸術)の中に埋没した時、その人は始めて真に人間になる。芭蕉はそう主張する。
近代における文学観の大勢は、文学を現実や社会の方に引き寄せて見る立場であろう。生活のために文学や芸術があるのであり、現実を写すところに文学作品が成り立つという考え方が強い。素朴な芸術至上主義は敗退し、文学を生活や現実の方に近付けることによって、文学を支えようとしている。これに対して芭蕉のとった態度は正反対である。生活や現実を、芸術の中に埋没させることによって、両者の一体化を計ることが、芭蕉の試みた方法である。いわば生活の芸術化によって両者の統一を試みたといってもよい。実事を捨てて虚事に専念することは、生活の事実がないということではなく、現実の生活が虚事本位になるということである。
この考え方については、すでに再三触れて来た。だが元禄四年頃に、この『笈の小文』の文のような形で、芭蕉がはっきりと述べたのは、芭蕉がそのような覚悟をもう一度新たにしたからであろう。
みずから選んだ道の再確認
実事を虚事の中に埋没させ、虚事にのみ生きることになれば、当然のこととして、現実生活は痩せて、不幸になって行く。いや、生活を重んずる人の立場からいえば、痩せて不幸のように見える、というべきかもしれない。その代わりに、芸術が充実し、芸術が肥え、芸術が成長する。芭蕉はその道を自ら選んだのであり、そのことを文に草して、もう一度自分にいい聞かせたのである。元禄二年以後の芭蕉の生活は正しく「見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし」であった。
その代わりには、財なく、家庭なく、江戸へ戻ろうとしても住むべき家がない現実に甘んじなければならない。「栖去之弁」(元禄五年春)は、そのような辛《つら》い現実に対して、自己の覚悟を述べたものだが、それは次章に掲げることにする。
この年の中秋名月の会を、芭蕉は義仲寺の自分の草庵(無名庵)で催した。先に門人たちによって新しい草庵が作られていた。来会した門人は、乙州・正秀・洒堂(珍碩)・丈草・支考・木節・惟然・智月等の有力門人たちで、芭蕉は「三井寺の門たゝかばや今日の月」と詠んだ。三井寺の門はたたかなかったが、興に乗じて、千那・尚白を訪ね、翌日は船で堅田に渡り、成秀亭に遊んで風雅をほしいままにした。堅田での連句(歌仙)には、十九人もの多数が参加している。芭蕉の風流三昧の生活のさまをうかがうに足りよう。
九月二十八日、義仲寺の無名庵を出立して帰東の旅につくまで、このような風流三昧の生活が続いたが、しかしそのかげには、もう、千那・尚白の離反や、荷兮・越人・野水等の離反が起こり始め、それに凡兆までも同調しようとしていた。芭蕉の心に、少し湖南地方の滞在が長過ぎたとの悔いがあったかもしれない。
九月二十八日の夜は、大津の乙州《おとくに》宅に泊まり、乙州には自画像を、母の智月には自筆「幻住庵記」を形見にのこし、なお未完成の『笈の小文』(草稿)を乙州に預けた。
なぜ『笈の小文』の草稿を未完成のまま乙州のところに残したのであろう。恐らくは、もう芭蕉の胸中に『おくのほそ道』執筆の構想があって(あるいは一部はすでに書き始められていたかもしれない)、なかなかものにならない『笈の小文』よりも、新しい紀行執筆の方に関心が移って来たからであろう。始めは『笈の小文』で述べようとしていたことを、だんだん『おくのほそ道』の中につぎこもうと考えるようになったのではあるまいか。そうなれば、『笈の小文』はもういらない。少なくとも当分取り出す必要はない。芭蕉は道中の荷物になる『笈の小文』の未完成草稿を大津に置いて、帰東の旅に出立した。