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芭蕉 その人生と芸術29

时间: 2019-05-21    进入日语论坛
核心提示:江戸の新草庵で乞食同然の身の上をみずから肯定 芭蕉が、東海道の各地の門人と俳席を持ちながら、ゆっくりと旅を続けて、江戸へ
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 江戸の新草庵で
 
乞食同然の身の上をみずから肯定
 芭蕉が、東海道の各地の門人と俳席を持ちながら、ゆっくりと旅を続けて、江戸へ戻ったのは元禄四年(一六九一)十月二十九日のことである。芭蕉庵はまだできていなかったから、「いまだ居所不定」(十一月十三日付け曲水宛て書簡)であった。しかしそれは、芭蕉としては覚悟の上のことである。毎日のように訪ねて来る旧友・門人たちに、芭蕉は次の一句を示した。
 
よの中、定《さだめ》がたくて、此《この》むとせ、七とせがほどは、旅寝がちに侍れ共、多病くるしむにたえ、とし比《ごろ》ちなみ置《おき》ける旧友・門人の情わすれがたきまゝに、重《かさね》てむさし野にかへりし比《ころ》、ひと日々|草扉《さうひ》を音づれ侍るにこたへたる一句、
ともかくもならでや雪のかれお花 ばせを
 
(『雪の尾花』)
 
 やがて橘町(「浜町にて越前殿上り屋敷跡新地」)の彦右衛門方の借家に入り、元禄五年の正月を迎えることとなった。深川より少し市中に近い所に住居を定めたのを、世間の人は「不審」がった。芭蕉は「常人の目の付《つけ》所、おかしく、浅ましく候」(五月七日付け去来宛て書簡)と書いている。
 
栖去之《せいきよの》弁           ばせを
こゝかしこうかれありきて、橘《たちばな》町といふところに冬ごもりして、陸(睦《む》)月・きさらぎになりぬ。風雅もよしや是までにして、口をとぢんとすれば、風情胸中をさそひて、物のちらめくや、風雅の魔神なるべし。なを放下《はうか》して栖《すみか》を去《さり》、腰にたゞ百銭をたくはへて、柱(〓《しゆ》)杖一鉢《ぢやういつぱつ》に命を結ぶ。なし得たり、風情|終《つひ》に菰《こも》をかぶらんとは。
 
(『芭蕉庵小文庫』)
 
 人の喜捨《きしや》によって毎日を送る生活は、乞食の境涯である。風雅に身を献じ、生活を芸術に捧げた結果、現実生活に於いて乞食同然の身の上になったことを、芭蕉は「なし得たり」とみずから肯定しようとしている。五十歳にもなろうというのに、「いまだ居所不定」と書かねばならない現実生活は、痩せて不毛である。しかし、そうしなければ真の文学は得られないのだ。
 江戸の俳壇には、点取《てんとり》俳諧が充満していた。「此地点取俳諧、家々町々に満〓《みちみち》〓、点者どもいそがしがる躰に聞え候。其|風躰《ふうてい》は御察し可被成《なさるべく》候《さふらふ》」(同年二月十八日付け珍碩宛て書簡)であり、「屋敷町、裏屋、背戸屋、辻番、寺かたまで、点取はやり候」(五月七日付け去来宛て書簡)であり、「点取ニ昼夜を尽し、勝負をあらそひ、道を見ずして、走り廻るもの」(同日付け曲水宛て書簡)が大半であった。そのまっただ中で「栖去之弁《せいきよのべん》」は書かれている。芭蕉だって小遣い稼ぎをしようとすれば、容易なことである。だが、あえてそれを峻拒《しゆんきよ》するところに、芭蕉の真面目がある。そこに芭蕉の文学の土台がある。またそれ故に芭蕉の声望が高かったのでもある。この年の一月中に刊行された他門の俳諧撰集が、次のように芭蕉の発句を乞い受けていることは、芭蕉の声望が俳壇に於いていかに高かったかを示すものである。
 麻野|幸賢《ゆきたか》(談林、西鶴一派)編『河内|羽二重《はぶたえ》』に発句一、和気遠舟《わけえんしゆう》(談林、宗因門、西鶴一派)編『すがた哉』に発句一、双吟堂春色(談林、惟中・西鶴一派)編『移〓抄《わたまししよう》』に発句一、青木|鷺水《ろすい》(立圃《りゆうほ》門・団水《だんすい》系)編『春の物』に発句一。
 
芭蕉も移植されて新草庵にぎわう
 五月中旬に、ようやく、芭蕉庵がまた元の地の近くに成った。部屋数三間ほどの草庵であるが、南に向かい、池に臨《のぞ》み、竹を植え、樹に囲まれ、五本の芭蕉を移植して、遠く富士山を眺め得た。杉風《さんぷう》・濁子・枳風《きふう》・李下その他の人々の出資であった。
 秋八月、芭蕉は「芭蕉を移す詞《ことば》」を書き、その末尾に、
 
名月のよそほひにとて、先《まづ》ばせをを移す。其葉七尺あまり、或《あるひ》は半《なかば》吹|折《をれ》て鳳鳥《ほうてう》の尾をいたましめ、青扇《せいせん》破《やぶれ》て風を悲しむ。適々《たまたま》花さけども、はなやかならず。茎《くき》太けれども、おのに当らず。彼《かの》、山中|不材類木《ふざいのるゐぼく》にたぐへて、其|性《さが》尊し。僧|懐素《くわいそ》はこれに筆をはしらしめ、張横渠《ちやうわうきよ》は新葉をみて修学の力とせしとなり。予、其二つをとらず。唯このかげに遊て、風雨に破れ安きを愛するのみ。
 
(「真蹟三日月日記」)
 
と書く。中国|唐《とう》代の書家の懐素は芭蕉の葉を紙の代用として手習いをし、同じく中国|宋《そう》代の張横渠は、芭蕉の葉が次々と新葉を出すのを見て、そのように新徳を養い、新知を得ようと、心に期した。だが、と芭蕉はいう、自分はその二人のように、芭蕉を実用の具としては見ない、ただその葉かげに遊んで、その葉が裂けやすく、風雨に破れがちな風情を愛するのみだ、と。芸術本位の生活態度は、ここにも一貫しているといえよう。
 右の文を収録する『三日月日記』は、八月三日の三日月の夜から、十五日の満月の夜までの知友・門人の句を集めたもので、この間、芭蕉庵を訪れた人々は三十余名に及ぶ。芭蕉自身の句は、次の二句である。
 
三日月の地は朧なり蕎麦《そ ば》畠《ばたけ》
名月や門に指しくる潮頭《しほがしら》
 
 なお八月九日には、彦根藩士で江戸在勤中の森川|許六《きよりく》が入門し、翌年五月江戸を去るまでの間、極めて熱心に芭蕉の指導を仰いだ。許六は狩野《かのう》派の画に練達であったので、芭蕉は許六に俳諧の指導をするかたわら、許六から画を習った。
 また九月上旬には、膳所《ぜぜ》の洒堂《しやどう》(珍碩《ちんせき》)が、上府して芭蕉庵に滞在することとなった。芭蕉が湖南滞在中に指導を受けたのだが、さらに教示を得ようとして江戸に来たものである。酒堂は翌年一月下旬まで芭蕉庵の客となって、芭蕉に師事するとともに、江戸の蕉門の人々と俳交を深め、『深川』を編んだ(翌元禄六年二月刊行)。
 
多くの門人にかこまれて新風を促進
 許六・洒堂ばかりではない。曲水も折りから上府して来たし、江戸の知友・門人たちも芭蕉を放っては置かない。九月から年末までの間に、今日わかる連句会だけでも十一回に及ぶ。「さても人にまぎらされ、こゝろ隙《ひま》無二御座一候」(十二月三日付け意専宛て書簡)と書かざるを得ないほどの状態である。十二月三日付け許六宛ての書簡によると、許六が芭蕉庵訪問を申し入れたのに対し、八日から十七日までの十日間の中で、在宅が確実なのは十三日だけだと返事している。多忙の状を察すべきである。
 多忙ではあったが、しかし芭蕉を理解する熱心な門人に取り巻かれることは、一面、芭蕉にとっても俳諧の上での工夫を進める結果を招来した。芭蕉が元禄三、四年の頃から「重み」を嫌って新しい作風に転じつつあったことは前述した。その後の俳風も大局的に見れば、その延長の上にあるといってよい。
 
塩鯛《しほだひ》の歯ぐきも寒し魚《うを》の店《たな》   芭蕉
 
(『薦獅子』)
 
について、其角は「魚の店」とあるところは、普通なら「衰零《すいれい》の形にたとへなして」「老の果《はて》」とか「年のくれ」とか置くところだが、それを「魚の店」と即物的に詠んだところが素晴らしいと感心し、これによって「活語の妙をしれり。其幽深玄遠に達せる所、余はなぞらへてしるべし」(『句兄弟』)と激賞している。「老の果《はて》」とか「年のくれ」では、其角のいう通り、浅い観念句になってしまう。芭蕉は元禄三、四年以来そのような薄っ平い観念的詠みぶりを「重み」として排斥している。「魚の店」によってこの句は俳諧性を得、具象的・日常的・即物的で、しかもそこに一脈作者の心境の気分象徴がある。
 支考は、その点を次のようにいう。
 
(前略)今いふ其角《きかく》も我輩《わがはい》も、たとへ塩鯛の歯ぐきを案ずるとも、魚の棚は行|過《すぎ》て、塩鯛のさびに木具の香をよせ、梅の花の風情をむすびて、甚深微妙の嫁入《よめいり》をたくむべし。祖翁は、其日、其時に、神々の荒《くわう》の吹《ふき》つくして、|さゞゐ《ママ》も見えず、干《ひ》あがりたる魚の棚のさびしさをいへり。誠に其比の作者達の手づまに金玉をならす中より、童部《わらはべ》もすべき魚の棚をいひて、夏炉冬扇《かろとうせん》のさびをたのしめるは、優游自然《いういうじねん》の道人《だうじん》にして、一道|建立《こんりう》の元祖ならざらんや。
 
(『十論為弁抄』)
 
 支考の文には一種の癖があって、言葉通りには従いがたいとしても、初心者は塩鯛の歯ぐきの寒さをさびとして捉え、これに「木具の香」とか「梅の花」を対さしめて、「甚深微妙の嫁入をたくむ」ことが多い。つまり、ただ「魚の棚」というだけでは物足らないと考えて、風流ぶった趣向をこらしたり、意味ありげにいおうとする。それを子供でも詠む「魚の店」と末句を結んだところが「たとい十知の上手とても及ばぬ所」だと支考はいう。
 芭蕉自身も、其角の「声かれて猿の歯白し峯の月」の句について、その句は其角らしい句だが、といって、「塩鯛の歯ぐきは、我《わが》老吟也。下を「魚の店」と、たゞ云《いひ》たるも、自句也」(『三冊子』)と述べている。其角のように趣向を構えないところが自分らしいところなのだ、というのである。
 
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