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芭蕉 その人生と芸術30

时间: 2019-05-21    进入日语论坛
核心提示:五十歳にして甥桃印の死と三人の子を連れた寿貞 こうして元禄五年は俳事多忙のうちに暮れ、元禄六年五十歳の新年を迎えた。「年
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 五十歳にして
 
甥桃印の死と三人の子を連れた寿貞
 こうして元禄五年は俳事多忙のうちに暮れ、元禄六年五十歳の新年を迎えた。「年々や猿に着セたる猿の面《めん》 狂生芭蕉」(真蹟)が歳旦吟であった。土芳はこの句について「師のいはく、人同じ処に止って同じ処に年々落ち入る事を悔いていひ捨てたるとなり」(『三冊子』)という芭蕉のことばを伝える。同じようなことを繰り返してまた新年を迎えたか、五十歳にもなって、という悔いが芭蕉の胸中にあったのであろう。
 芭蕉が父を失った甥の桃印《とういん》を江戸に連れて来たのは、延宝四年のことである。それについては前述した。少年だった桃印も、今は三十三歳であるが、芭蕉は桃印を養子にするつもりだった。そのつもりで多年養育して来たのだが、桃印は結核にかかり、二月二十日頃からはすでに重態であった。
 三月二十日付け許六宛て書簡の中で、芭蕉はすでに「十死|之躰《のてい》に」見えるといい、旧里を出て十年余り二十年にもなるが、その間、母親に会うこともなく、父とは、五、六歳で死に別れたままである。その後自分がずっと介抱《かいほう》して今年三十三歳になる。「此|不便《ふびん》はかなき事|共《ども》、おもひ捨《すて》がたく胸をいたましめ」ていると述べている。二月八日には、曲水に内々で金子一両二分の借金を申し入れているが、それは桃印の病気治療のためであろう。
 三月下旬に桃印は没した。芭蕉は暗澹たる心境のうちに「花の盛《さかり》、春の行衛《ゆくえ》も夢のようにて暮」(四月二十九日付け荊口《けいこう》宛て書簡)らした。
 とはいうものの、四月に入ると芭蕉庵で十吟歌仙興行が行なわれて居り、大垣藩邸の八吟歌仙興行にも出席しているから、俳事を廃することはできなかった。有名な「柴門《さいもん》ノ辞」(「許六離別の詞」)が書かれたのも四月下旬のことである。
 芭蕉は「柴門ノ辞」の中で、「予が風雅は夏炉冬扇《かろとうせん》のごとし。衆にさかひて用《もちふ》る所なし」と記した。上来述べて来た芭蕉の文学観から当然の帰結であるが、このような大胆なことばをやすやすと述べ得るところに、芭蕉の心境の深まりを見ることができる。
 この頃には、一たび別れた寿貞が、また芭蕉の世話になりに来ていた。まさ・ふう・次郎兵衛と三人の子供まで連れてであった。芭蕉は彼等を近所に住まわせ、まだ少年の次郎兵衛を使い走りに使った。
 
初秋の一ヵ月、門をとざしてこもる
 元禄六年の夏は酷しい暑さだった。芭蕉は俳事を勤めてはいたが、健康が勝れず、初秋、盆過ぎから約一ヵ月間、門を閉じて客を謝した。「閉関之説《へいくわんのせつ》」はこの間の作である。閉関は健康上の理由もあったであろう。閉関を解いてからの書簡には、「夏中甚暑ニ痛候|而《て》、頃日《けいじつ》まで絶《たち》二諸縁一、初秋より閉関、病閑保養にかゝづらひ筆をもとらず候故、心外に打|過《すぎ》候」(荊口《けいこう》宛て)などとあって、暑さまけのための保養が主な理由のように一見受けとれるけれども、それは表面的な理由であって、むしろ主たる理由は精神的なものであったと考えたい。
 健康が勝れなかったこともあるであろうが、七月初中旬には「弔《とむらふ》二初秋七日|雨星《あまぼしを》一」の文を草し、杉風と往来し、外に歌仙興行を三つもしている。京都からは史邦《ふみくに》も上府して来ている。閉関は、病気だけではなく、むしろ人を避けたのだと考えたい。
「閉関之説」の書き出しから半分までが、女色のことにふれ、女色の失敗より「老の身の行末をむさぼり、米銭の中に魂をくるしめて、物の情をわきまへ」ないことの方が「はるかにまして」罪深いと述べているのは、この閉関が、あるいは寿貞と関係があるのではないかと思わせられる。寿貞が前から泣きこんで来ていて、子の次郎兵衛は使い走りなどに使っていたが、盆前後から寿貞を、とうとう芭蕉庵に引き取ることになったのではあるまいか。そうして、一ヵ月ばかりかかって、近所に住まわせることにして閉関を解いたのだと考えるのは、どうであろう。このあと翌年芭蕉が最後の旅に出立するまで寿貞等が近所に住んでいたことは、七年五月十六日の曾良宛て書簡その他によって知られる。
 寿貞等がしばらく転がりこんでいることは、江戸の近しい門人にはいいえても、地方の門人にまではいいにくいことであったろう。主として健康上のことを閉関の理由にした所以《ゆえん》ではあるまいか。だが、これは何の証拠もないことであるから、単なる想像の域を出るものではない。
 しかし、寿貞のことがあると否とに関わらず、芭蕉の心境の中に、人に倦んだ気持ちがあったことは、「閉関之説」の末尾に、
 
(前略)人来れば無用の弁|有《あり》。出《いで》ては他の家業をさまたぐるもうし。尊(孫)敬が戸を閉ぢ、杜《と》五郎が門を鎖《とざさ》むには。友なきを友とし、貧を富《とめ》りとして、五十年の頑夫《ぐわんぷ》、自《みづから》書《しよし》、自《みづから》禁戒となす。
あさがほや昼は鎖《ぢやう》おろす門の垣  ばせを
 
とあるあたりを読めば明らかではあるまいか。多少の文飾はあるとしても、この時の閉関の理由を病気だけに帰することはできないような口調が、この一文にはある。
 
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