長い歳月をかけて推敲また推敲
『おくのほそ道』をいつ執筆したかは正確にはわからないが、草稿を曾良が筆写した曾良本『おくのほそ道』の成ったのが元禄五年六月以後であることは明らかであり、恐らく元禄六年の後半に、ある程度までの推敲が進められたと思われる(拙稿「曾良本おくのほそ道による奥の細道の研究」)。この夏から秋への閉関の間にも『おくのほそ道』の執筆と推敲は進められたと見てよいのではないか。
大体芭蕉は、自分の作品に何度も何度も手を入れる型の作家である。発句もそうだが、文章もそうである。『幻住庵記』にしても、何度も何度も書き直し、去来や凡兆等の意見を聞いては取り入れている。紀行の執筆態度も同様に推敲に推敲を重ねている。紀行の場合には、旅中ところどころの短文をまず執筆し、それがある程度たまったところで、それらの短文を基礎にして執筆を進めた形跡がある。
だから、『おくのほそ道』のような長文の紀行は、かなり長い歳月をかけて書いたものと考えられる。おそらくは、江戸へ戻って来て、ようやく生活が落ち着いた、元禄五年頃から、折り折りに筆を進め、元禄六年の後半に一まずまとめ、更に七年のはじめまで推敲を続けたとみてよいのではあるまいか。
曾良が特に許されて『おくのほそ道』を筆写したのは、彼がその旅の同行者だったからに相違ないが、曾良が写したあとも、芭蕉は更に推敲を加えている。芭蕉が曾良に筆写を許したのは、一応完成したと思ったからであろう。未完成のものを写させるはずがない。従ってその筆写の時期は、素竜筆写本のできる元禄七年初夏以前であることは確かだが、またそれより余り遠くさかのぼるとは思われない。せいぜい数ヵ月であろう。曾良は元禄六年秋から翌年まで江戸にいて、芭蕉の身辺に近かったと思われるから、おそらくその頃に筆写を許されたのであろう。
いずれにしても『おくのほそ道』が、旅行直後の執筆ではなく、旅行後数年たってからの執筆であり、しかもその間に、作風の上で大きな転回があったことは記憶すべきである。元禄三、四年の時期に、芭蕉が新風を志したことについてはすでに述べた。また、『笈の小文』の未定稿が、元禄四年頃に執筆されたことについても述べた。それらを踏まえて『おくのほそ道』が執筆されたことに留意しなければならない。
紀行を文学として創造
すなわち、芭蕉は『笈の小文』の完成を断念してしまったが、それは『笈の小文』をいじり廻すことよりも、『おくのほそ道』の執筆の方に気持ちが動いて行ったからであり、『笈の小文』で書こうと思ったことを、『おくのほそ道』の中に注ぎこんだと思われるのである。そのようないい方をすると、現代人には奇異な感じを与えるかもしれない。現代人にとっては、紀行を書くことは旅の事実を書くことであるから、『笈の小文』で書こうとしたことを、別の旅行記である『おくのほそ道』の中で書くことは不可能のように感じられるであろう。
しかし、芭蕉にとっては、紀行は旅の事実を書くことでなく、旅を通して文学作品を書くことであるから、『笈の小文』で書こうとして書き得なかったことを、『おくのほそ道』の方で書くことは決して不可能ではないのである。殊に元禄四年の『笈の小文』執筆の頃から、この文学としての紀行観が芭蕉の内部で確立されて来たように思われる。文学としての紀行観というのは、『笈の小文』の、次のような一節に端的に示されている。
抑《そもそも》道の日記といふものは、紀氏《きし》・長明《ちやうめい》・阿仏《あぶつ》の尼《あま》の、文をふるひ情を尽《つく》してより、余は皆俤《おもかげ》似かよひて、其|糟粕《そうはく》を改《あらたむ》る事あたはず。まして浅智短才の筆に及《およぶ》べくもあらず。其日は雨|降《ふり》、昼より晴《はれ》て、そこに松|有《あり》、かしこに何と云《いふ》川流れたり、などいふ事、たれもいふべく覚《おぼえ》侍れども、黄奇蘇新《くわうきそしん》のたぐひにあらずば云《いふ》事なかれ。されども其所の風景心に残り、山館野亭のくるしき愁も且《かつ》ははなしの種となり、風雲の便りともおもひなして、わすれぬ所、跡や先やと書集《かきあつめ》侍るぞ、猶酔ル者の妄《まう》語《ご》にひとしく、いねる人の譫言《うはごと》するたぐひに見なして、人又|亡《ぼう》(妄)聴《ちやう》せよ。
芭蕉はここで何を語ろうとしているのか。それは、事実としての旅の記は、旅の記録ではあっても文学ではない、という簡明なことである。その日は朝から雨が降ったが昼頃から晴れたとか、何々という所に大きな松があったとか、その先に何々という川が流れていたとかいう事実の記録は、文学ではない。文学とは、黄山谷や蘇東坡の作品に見られるような、珍しいこと、不思議なこと、人の心を惹きつけるようなことを書くものであり、常識人の記録ではなく、酔っぱらいの妄語《もうご》か、眠った人のうわ言の類だという。世間常識の人の文とは次元の違ったところに成立するとの主張である。
この文学としての紀行論は、元禄四年に書かれた(殊にこの部分はそうである)『笈の小文』の序論のようなものであったが、『笈の小文』が未完稿のまま断念された後では、元禄五年頃から書き始められた『おくのほそ道』の、いわば序論として理解してもよいような地位に置かれる。
そこにあるのはただ虚構の事実
このような、文学としての紀行を書くのだから、必ずしも、旅行直後、記憶の薄れないうちに大急ぎで書く必要はなかった。旅行中の気持ちをそのままに書きこむのではなく、紀行執筆時の作者の胸中のものが盛りこまれる。旅の事実通りである必要はなく、旅の事実を素材にした創作になって行く。
『おくのほそ道』の旅の事実と、『おくのほそ道』の本文との相違については、従来しばしば論ぜられ、それは虚構として考察された。なるほど、世間常識の紀行観からいえば虚構かもしれないが、芭蕉の心中には、虚構の意識はなかったのではあるまいか。
虚構とは、事実があっての虚構である。旅の事実があって、その事実を書く代わりに、事実になかったことを書くのが虚構だが、芭蕉にとっては旅の事実はないのである。すでに述べて来たように、芭蕉は現実生活を芸術に献身した。したがって事実としての生活は、ないも同然である。あるものは芸術であり、俳諧であり、風雅的生活である。だから、曾良は克明な旅日記をつけたが、芭蕉は事実としての日記をつけようとはしない。芸術・風雅に一体となるところに芭蕉の生活がある。芭蕉といえども、飲んだり食べたりはするが、それは人間の生活ではない。それは動物的な未開人もやるし、鳥や獣もする営みである。
人間の生活とは、人間だけが営む生活でなければならない。日常の行為と精神とが芸術と一体になった時、そこに始めて人間の生活がある。これについては前述した通りである。
とすれば、旅の事実とそれに対する虚構とがあるのではなく、虚構だけが真にあるのだということになる。芸術化された事実だけが真にあるのである。文学になったものだけが意味ある事実であって、非文学的な事は事実以前のものである。人間の営み以前のことである。事実が真に事実になるのは、文学的事実になる時である。もし虚構ということばをあえて使うなら、事実が虚構と一体になった時、事実が真の事実となる。意味ある事実となる。
『おくのほそ道』を芭蕉はそのような姿勢で書き進めて行った。だから、旅の事実との喰い違いはあえて意としなかった。市振《いちぶり》での、遊女と同宿の一条が創作であり、「一家に遊女も寝たり萩と月」の句も、『おくのほそ道』執筆時の作であることは先に述べた。そういう箇所を指摘すればいくらでもあるが、ここでは余り深入りは避ける。ただ、そのような箇所がどうしてできたかを考えることが、芭蕉の文学的姿勢をうかがうよすがとなるであろうことを記して置こう。
紀行中の発句にしても、例えば「五月雨《さみだれ》の降《ふり》のこしてや光堂《ひかりだう》」の句ができたのは、旅行中ではなく、『おくのほそ道』執筆時で、しかも、曾良に筆写を許した後に「五月雨や年降も五百たび」の句を直して、前掲の形に改めたのである。だから、「光堂」の形の句ができたのは、元禄六年末か元禄七年になってからであろう。このような例はまだ外にいくつか考えられる。例えば、私は「行春や鳥|啼魚《なきうを》の目は泪《なみだ》」とか、「田一枚|植《うゑ》て立去る柳かな」なども、旅行中の作ではなく、執筆時の作ではないかと考えるものだが、今は考証を省略する。