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芭蕉 その人生と芸術32

时间: 2019-05-21    进入日语论坛
核心提示:軽 み「軽み」への俳風をさらに推進 旧暦八月の中旬に閉関を解いた芭蕉の身辺は、閉関前と同様に、俳事に多忙であった。八月中
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 軽 み
 
「軽み」への俳風をさらに推進
 旧暦八月の中旬に閉関を解いた芭蕉の身辺は、閉関前と同様に、俳事に多忙であった。八月中旬以後、歳末までの間に行なわれた連句の会席は、今日わかるだけでも十六回に及ぶ。今日わからない会席もかなりあったに相違ない。しかし、当時の江戸俳壇は数年前から引き続いて、前句付けの点取俳諧が横行していた。芭蕉は十月九日付け許六宛て書簡の中で「当冬は相手に可レ為《なるべき》物《もの》(者)無二御座一候へば、俳諧も成申まじく候。広き江戸ニ相手のなきも気の毒ニ存候。当方無レ恙《つつがなく》、五句|付《づけ》点取、脾《ひ》の臓を捫《もむ》程(に)候」と歎いている。
 その中で芭蕉は、元禄三、四年来押し進めて来た軽みの方向を、更に進めようとしている。前述したように、軽みは、それ自体美的理念ではない。それは重みに対する反対概念であり、重みとは、これも前述した通り、観念的・因襲的風流に捉われることである。観念的・因襲的風流を排し、作意の露骨な風流ぶった作風を斥《しりぞ》けて、物に即して新しい詩情の発掘に努めることが、不易流行の流行に当たる。それが即ち、また軽みでもある。だから、それは発句にも連句にも共通する問題である。作品の二、三を挙げてみよう。
 
寒菊や粉糠《こぬか》のかゝる臼《うす》の端《はた》   芭蕉
 
(『炭俵』)
大根引といふ事を
鞍壺《くらつぼ》に小坊主乗るや大根引《だいこひき》   芭蕉
 
(同右)
神無月廿日ふか川にて即興
振売《ふりうり》の鴈《がん》あはれ也ゑびす講   芭蕉
 
(同右)
煤《すす》はきは己が棚つる大工かな  芭蕉
 
(同右)
 
 いずれも解説を要さない平明な句であるが、それは芭蕉が、殊更に奇警をねらった作を「手帳俳諧」(書簡)としてしりぞけ、またわざとらしい作意のある句を「拵《こしらえ》の俳諧」(書簡)として排したことと符節《ふせつ》を合わせるものがある。
 
旅心ようやく動く
 こうして芭蕉は元禄七年の春を迎えた。正月二十日付け意専(猿雖)宛て書簡に、「漸々《やうやう》旅心もうかれ初候。され共いまだしかと心もさだまらず候へ共、都の空も何となくなつかしく候間、しばしのほど成共《なりとも》上《のぼり》候|而《て》、可レ懸《かかる》二御目一と存候」とあり、二月二十三日付け曲水宛て書簡には、年内に西上の予定を述べているから、年があけると、今年は西上の旅に出ようかと考え出したものであろう。
 実際の出発が五月十一日になったのは、持病のため多少発足が遅れたこともあるが、一つには『おくのほそ道』を仕上げてからという気持ちがあったからではあるまいか。素竜が芭蕉の原稿を清書して届けに来たのは四月中のことであった。
 五月上旬、子珊《しさん》の家の別座敷で、芭蕉を送る餞別の句会が開かれた。その席で芭蕉は「今思ふ体《てい》は、浅き砂川を見るごとく、句の形・付心ともに軽きなり。其所に至りて意味あり」(『別座舗《べつざしき》』序)と語った。
 また、五月十一日の出発に際しては、見送りの素竜の手を握って「再会の期《ご》を契《ちぎ》り」、なお六月刊行予定の『炭俵』の序文について指示した(『炭俵』序)。『炭俵』は、芭蕉晩年の作風をよく示した撰集といわれる。
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