少年次郎兵衛を労わり、旧門人らを訪ね……
今度の旅行には寿貞の子の次郎兵衛を供に連れて行き、曾良が小田原まで見送った。次郎兵衛は十五歳ぐらいの少年だった。少年ではあり旅馴れていないので、戻り馬の安いのがある時は、一里半か二里ぐらいずつ乗せるなど、芭蕉は非常に気を使っている。
名古屋では、離反の態度を見せる荷兮《かけい》を訪ねて「三夜二日」逗留《とうりゆう》し、『冬の日』以来の門人で、同じく反芭蕉的な態度を示す野水・越人等とも旧情を暖めようとつとめた。荷兮たちの反芭蕉的態度の原因には、自分たち古い門人をさし置いて、新しい門人を引き立てる師の態度への不満が多分にあった。それは、すでに述べたように、常に新しみを求め、軽みの方向に前進する芭蕉としては、やむをえないところであったが、芭蕉は新しみについて行けないこれら古い門人たちにも、ここで手をさしのべたのである。
荷兮たちは大よろこびで芭蕉を歓待し、出発に際しては「町はづれ一里余まで、荷兮・越人大将ニ而、若きもの共不レ残送りて出、餞別の句など道々申候」(閏五月二十一日付け曾良宛て書簡)という状態であった。この荷兮の仲間とは派の違う露川《ろせん》たちは、道を先行して、荷兮等が引き返したあと、芭蕉を道に待ち受け、佐屋《さや》まで同行し、佐屋に芭蕉と同宿して俳諧の指導を受けた。
またこれより先、鳴海の豪家の主人|知足《ちそく》はいつもは泊まって行く芭蕉がちょっと挨拶に立ち寄っただけで名古屋に直行してしまったので、わざわざ主人みずから名古屋に出て来て、鳴海へ引き返すよう強いて頼むようなこともあった。結局芭蕉は「いろ挨拶」して帰って貰ったのだが、芭蕉の声望が高く、引っ張り凧である様子がわかるであろう。
落柿舎で寿貞死去の報をきく
それから芭蕉は、五月二十八日に上野へ帰り、翌月の閏五月半ばまで郷里の人々と会ったり、俳席を勤めたりしたのち、大津へ出、膳所《ぜぜ》へ移り、やがて閏五月二十二日、洛外嵯峨の落柿舎に入って、六月十五日まで滞在した。湖南・京の人々が芭蕉の来訪をよろこんだことはいうまでもなく、俳事もまた活発であった。だが、落柿舎滞在中の六月初旬、江戸の寿貞死去のしらせが届いた。芭蕉は筆をとって「寿貞|無仕合《むしあはせ》もの、まさ・おふう同じく不仕合、とかく難二申尽一候。……何事も夢まぼろしの世界、一言理くつは無レ之候。ともかくも能様《よきやう》ニ御はからひ可レ被レ成候」(六月八日付け猪兵衛宛て書簡)と書き、次郎兵衛を江戸へ帰した。
その後湖南の地へ移り、たまたま七月初めの大津の木節《ぼくせつ》の家で「ひやと壁をふまえて昼寝哉」(『笈日記』)の句を詠んだが、この句に対して支考は次のように記している。
此句はいかにきゝ侍らんと申されしを、是もたゞ残暑とこそ承り候へ。かならず蚊屋《かや》の釣手《つりて》など手にからまきながら、思ふべき事をおもひ居ける人ならんと申侍れば、此|謎《なぞ》は支考にとかれ侍るとて、わらひてのみはてぬるかし。
(『笈日記』)
芭蕉が支考に、この句をどう理解するかと尋ねたので、支考は、部屋の隅に畳んで置いてある蚊屋の釣り手などを手にからまいたりしながら「思うべき事をおもひ居ける人」の有り様であろうと答えたところ、芭蕉はその通りだと答えたというのである。「思ふべき事」の中に、この場合、寿貞の死があったとしても決して不当ではあるまい。
芭蕉は、残暑のけだるい足を壁にもたせかけたりしながら、寿貞との来《こ》し方を思い、また遺児たちの行く末を思い、さらには自分の半生を省みていたのであろう。この機会に元禄七年の作品をつぎに紹介しておく。
「軽み」の代表作・野坡との両吟歌仙
むめがゝにのっと日の出る山路かな 芭蕉
処《ところ》どころに雉子《きじ》の啼《なき》たつ 野坡《やば》
家普請《やふしん》を春のてすきにとり付《つき》て 同
上《かみ》のたよりにあがる米の値 芭蕉
宵の内はらとせし月の 雲同
藪越はなすあきのさびしき 野坡
(下略)
(『炭俵』)
元禄七年春の野坡との両吟歌仙の表六句である。和歌・連歌趣味を全く離れて、日常的な対象の中に物に即して新しい詩情を捉えている。軽みの代表作といわれる所以《ゆえん》である。
春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏《もり》 芭蕉
(『炭俵』)
この句に対して門人の野坡は次のように述べている。「春雨の蜂の巣、是はまことに世の人さほどに沙汰をせぬ句なりといへども、奇妙天然《きめうてんねん》の作なりと、翁つね吟じ申され候。此の蜂の巣は、去年の巣の草庵の軒に残りたるに、春雨のつたひたる静《しづけ》さ、面白くいひとりたる。深川の菴《いほり》の体《てい》そのまゝにて、幾度も落涙致候。凡俗をはなれ侍る句也」(『許野消息』)
野坡のいう通り、この句は何でもないような情景を詠んでいるようだが、しめやかに降る春雨を見るともなく見ている芭蕉のさびしい心持ちが、どことなく伝わって来るところがある。具象的・即物的・日常的でありながら、底の方から作者の心境がわずかに滲み出て来るところがある。芭蕉の志した軽みの方向であろう。
嵯峨《さが》
六《ロク》月や峰に雲置クあらし山
(杉風宛て書簡)
(前書略)
夏の夜や崩《くづれ》て明《あけ》し冷し物 芭蕉
(『続猿蓑』)
元禄七年六月廿一日大津木節菴にて
秋ちかき心の寄《よる》や四畳半 翁
(『鳥の道』)
去年の秋|文月《ふみつき》の始《はじめ》ふたたび旧草(義仲寺の無名庵)に帰りて
道ほそし相撲とり草の花の露 翁
(『笈日記』)
ひとも自分もみんな白髪の実家の盆会
芭蕉は七月中旬上野へ戻り、九月八日まで滞在した。七月十五日には実家で盆会《ぼんえ》が行なわれ、芭蕉は、「家はみな杖にしら髪《が》の墓参」(『続猿蓑』)と詠み、さらに「尼寿貞が身まかりけるときゝて 数ならぬ身となおもひそ玉祭り」(『有磯海《ありそうみ》』)と詠んで、寿貞の冥福を祈った。
伊賀でも人々は芭蕉を取り囲んで離さなかった。十五日の盆会以後、九月八日の出立までの間に、上野で行なわれた連句の席は十三に及ぶ。今日解らないものも他にあったことであろう。五十三日の間に十三回以上といえば、少なくとも四日に一回は連句の席に引っ張り出されていることである。その間に来客も多かった。別に発句も作った。門人の指導にも当たった。八月九日付け去来宛て書簡によれば、「爰元《ここもと》、度《たび》会御座候へ共《ども》、いまだかるみニ移り兼《かね》、しぶの俳諧、散々《さんざん》の句のみ出《いで》候|而《て》致二迷惑一候」とある。
それでも、八月十五夜の名月には、兄半左衛門宅の裏庭に新築された新庵に、人々を招いて月見の宴を催し、その献立は自身で書いた。多分新庵の建築に協力した人々への感謝の気持ちもあったことであろう。当夜の句は次の三句である。
名月に麓の霧や田のくもり ばせを
(『続猿蓑』)
名月の花かと見へて棉畠
(同右)
八月十五日
今宵誰よし野の月も十六里
(『笈日記』)