日夜、疲労と病患をおして俳事
九月八日、芭蕉は、支考・素牛・次郎兵衛(江戸からまた戻って来ていた)・又右衛門等を供に上野を出て、大坂に向かった。すでに夏頃から、大坂へ来て欲しいという門人たちの依頼が、再三来ていたので、それに応えるべく出立したのだが、実は出立前から芭蕉の健康は勝れなかった。途中、十余丁(一キロ余)も歩くと、「殊の外つかれて青芝の上」で休まなければならない程であった(支考『追善之日記』)。それでも、奈良では、
びいと啼く尻声悲し夜の鹿
(杉風宛て書簡)
菊の香やならには古き仏達
(同右)
などと詠み、九月九日夕大坂着、洒堂の家を宿とした。
しかし、翌十日の晩から発熱し、寒けや頭痛に悩んだ。兄半左衛門宛て九月二十三日付け書簡の一節に「大坂へ参《まゐり》候|而《て》、十日|之《の》晩よりふるひ付申《つきまうし》、毎晩七ッ時(午後四時頃)より夜五ッ(八時頃)まで、さむけ・熱・頭痛|参《まゐり》候而、もしはおこりニ成《なり》可レ申かと薬|給《たべ》候へば、廿日|比《ごろ》よりすきとやみ申候」とあるから、それから十日ばかりは毎晩悩んだらしい。だが、大坂へ来たのは、大坂の門人たちの招請によるもので、日程はずっと組まれていた。芭蕉先生に来て貰って、自分の門人たちを紹介し、自分の家や有力門人の家で句会を開いて指導を受け、また自派の確立と拡張を計ることが、計算されていた。洒堂の家へ泊まった晩からもう洒堂の門人が押しかけて来ている(去来宛て書簡)。
十三日は後の月で、月見の句会が畦止《けいし》亭で予定されていたが、病気不快のため一日延期して、翌十四日に七吟歌仙が興行された。芭蕉の発句「升《ます》かふて分別|替《かは》る月見哉」(正秀宛て書簡)。「升《ます》買うて」と詠んだのは、前日住吉神社に参詣し、宝の市(升市ともいい、升を売る)を見物したので、昨夜十三夜の月見に来るべきところを、升市を見て、升などを買ったため、風流心がなくなり、不参したと弁解したもの。
十九日には其柳亭で夜会、芭蕉以下八吟歌仙興行。二十一日には車庸亭夜会、「秋の夜を打崩《うちくづ》したる咄《はなし》かな」の芭蕉の句を発句にして七吟半歌仙興行。だが、二十三日付けの兄半左衛門宛て書簡によれば「いまだ逗留もしれ不申候へ共《ども》、長逗留は無益|之《の》様ニ奉レ存候」とあり、健康上の理由もあったが、大坂の空気は芭蕉にとって余り快適ではなかったようである。
秋深き隣は何を……
二十六日には、大坂新清水の料亭|浮瀬《うかむせ》によばれ、折りから来坂していた江戸の門人|泥足《でいそく》の請《こ》いに応じて十吟半歌仙が興行された。奈良からずっと随伴していた支考の記すところによれば、芭蕉はこの時の連句の発句として、
人声や此道帰る秋の暮
此道や行人《ゆくひと》なしに秋の暮
の二句を示し、「此二句の間いづれか」と門人たちに尋ねた。支考は「此道や行人なしにと独歩し給へる所、誰か其しりへにしたがひ候半《はん》」と「此道や」の方を推した。芭蕉も「吾心にもさる事侍り」と答え、これに「所思」という題をつけた(『追善之日記』)。この句はすでに九月二十三日付けの意専(猿雖)・土芳宛て書簡にも見えているから、数日前から芭蕉の胸中にあったのを、この席で披露したものである。支考の『追善之日記』には、続いて、
旅懐
此秋は何《なん》で年よる雲に鳥
此句は、其朝(二十六日)より心に籠《こめ》てねんじ申されしに、下の五文字(「雲に鳥」)にて寸々の腸《はらわた》をさかれけるにや。是はやむごとなき世に「何をして身のいたづらに老ぬらむ年のおもはん事ぞやさしき」を切に思はれけるか。されば此秋はいかなる事の心に叶《かな》はざるにかあらん。伊賀を出《いで》て後は、心ちすこやかならず、明暮《あけくれ》になやみ申されしが、……(下略)
とある。
二十七日、園女《そのめ》亭で「白菊の目にたてゝ見る塵もなし」の芭蕉の発句で九吟歌仙興行。二十八日夜、畦止亭に洒堂以下七人の門人と会し、七種の恋を結題《むすびだい》にして各々即興の発句を詠む。芭蕉の句は「月下送レ児《ちご》 月|澄《すむ》や狐こはがる児《ちご》の供」(『其便』)であった。その日はまた、
秋深き隣は何をする人ぞ 翁
(『笈日記』)
の句を詠み、翌日に予定されていた芝柏《しはく》亭興行の発句にしようと、芝柏の許へ届けた。発句を届けたのは、健康が勝れないので、不参を慮《おもんばか》ってのことである。
孤独感ににじむ懐しさと暖かさ
この句の句意は、一読して明快である。平安な句勢と表現とによって、日常の茶飯事を詠んでいる。隣家の人はどういう人だろうという疑問は、私ども庶民の日常生活の中で、しばしば持ち出される話題である。「隣は何をする人ぞ」は、身辺卑近な人間への興味であり、関心であって、日常的・即物的なところに、晩年の主張である「軽み」が指向されている。だが同時に、芭蕉はそれを蕭条として暮れて行く晩秋の自然の哀感の中にとらえた。鈍い日のさす暮秋の季節的寂蓼感の中に把握した。去り行く季節の哀愁を身にひしと感じ、衰え行く自然の嘆きを諦観《ていかん》する時、人間の塵事は遠ざかって行く。芭蕉は「高く心を悟りて俗に帰るべし」(『三冊子』)と語ったが、その「高く心を悟る」に当たるであろう。
だが、「高く心を悟り」ながら、「俗に帰る」ところに俳諧が成立する。晩秋のあわれを実感としてつかみながら、そのまま日常卑近の世界へ下りて行くのが俳諧であり、また「軽み」の指向につながるところである。「隣は何をする人ぞ」は「俗に帰る」ことである。だがその両者は平面的な取り合わせではない。この二つが離れ離れに並存するのではなく、「秋深き」と「隣は何をする人ぞ」は、内面的に深く混融し、相互に映発しつつ、遂に一つのものになり切っている。この句を読むものは誰も二つの異質を意識しないであろう。便宜上二つに分けて説明したが、句としては二つに分かれているのではない。こういう手法によって、一面具象的でありながら、しかも象徴的に人生の深淵をのぞかせてくれるところが、この句の奥深さであり、高さだといえよう。
この句には説教はない。人生のあわれや人間のさびしさを説明しているところはない。ただ、隣り合って住んでいても、人間は結局ひとりひとりであり、名も知らず、顔も知らず(また仮に知っていても)、それぞれ別々に、めいめいの営みをするだけだという、人間の孤独感が、滲み出ているだけである。しかも、孤独の中にどこか暖かい、人を懐しがっているような心持ちもある。それは「隣は何をする人ぞ」という句調の中にひそかに籠められている。
だから、人生はただ寂しいと割り切っているのではない。人生は寂しく、また懐しく、暖かいものでもあろう。その複雑な人生を、芭蕉は複雑なままに詠もうとしている。どちらかに割り切ってしまった時には、作者の薄っぺらな観念だけが露呈する。それは芭蕉が「重み」として極力排斥したところである。「軽み」の主張は、また割り切るなという主張でもある。観念の先行を厭い、作者の大上段の身構えを嫌う主張である。最後の病床につく直前にこの句が成ったのは決して偶然ではあるまい。有名な「旅に病んで」の句も悪くはないが、この句こそ最後の光芒を示すものではあるまいか。
芥川龍之介がこの句を挙げて、「かう云ふ荘重の『調べ』を捉え得たものは茫々たる三百年間にたった芭蕉一人である」(『芭蕉雑記』)といったのは、この句の「調べ」のよさに気づいた人が少ないだけに注目される。
永 眠
翌二十九日の夜から「泄痢《せつり》」(下痢)を催して、芭蕉はどっと病に臥し、二度と起たなかった。十月五日の朝、南御堂前の花屋仁右衛門の貸し座敷に病床が移され、各地の門人に重態が報ぜられた。十月八日の深更、病床に侍していた呑舟《どんしゆう》を呼び、
病中吟
旅に病《やん》で夢は枯野をかけ廻《めぐ》る
(『笈日記』)
と書き取らせた。そのあとで、支考を呼んで「なをかけ廻る夢心」という形も考えたが、どちらがよいと思うかと尋ねた。支考は「なをかけ廻る夢心」では季語が入っていないから、上五文字は「旅に病で」ではあるまいと思い、上五文字はどういうのですかと聞こうと思ったが、それを聞き始めると長くなって、病気に障るかと考え「此句なににかおとり候はむ」と答えた。すると芭蕉は、また次のように語ったという。
みづから申されけるは、「はた生死の転変を前にをきながら、ほっ句すべきわざにもあらねど、よのつね此道を心に籠《こめ》て、年もやゝ半百《はんばく》に過《すぎ》たれば、いねては朝雲暮烟の間をかけり、さめては山水野鳥の声におどろく。是を仏の妄執《まうしう》といましめ給へる、たゞちに今の身の上におぼえ侍る也。此後はたゞ生前の俳諧をわすれむとのみおもふは」と、かへすがへすくやみ申されし也。さばかりの叟の、辞世はなどなかりけると、思ふ人も世にはあるべし。
(『笈日記』)
十月十日の暮れ方から高熱を発し、病状は急変した。夜に入ってから、支考に遺書三通を認《したた》めさせ、兄半左衛門には自筆の遺書を書いた。十一日には、たまたま上方行脚中の其角が馳せつけて来た。江戸出府後間もない芭蕉に、年少で師事し、二十年に近い教導を受けて来た其角であった。
十月十二日、申《さる》の刻(午後四時頃)永眠。享年五十一。その夜、遺骸を淀川の川船で伏見に送り、十三日、近江の義仲寺に運んだ。十四日の夜、子《ね》の刻(午後十二時)義仲寺境内に埋葬。門人の焼香者八十人、「まねかざるに」来った「余哀の」会葬者三百余人であった。