仏師法印運慶《うんけい》は、京都の七条仏所の奥で七十六歳の病んだ身体《からだ》を横たえていた。貞応《じようおう》二年の春の午《ひる》さがりである。昼餉《ひるげ》には、温糟《うんぞう》に〓荷《みようが》、酸蕗《みずぶき》、鶏冠《とさか》苔《のり》の点心が出たが、わずかに梅干に箸《はし》をつけただけであった。食欲がまるでない。潮の干満のように睡気が繰り返してさして来るだけである。
工房の方からは絶えず木を挽《ひ》く音や削る音が聴えてくる。それにまじって人声がする。一番高いのは息子の定慶《じようけい》の声である。そういう雑音が衰えた耳に一種の懈《ものう》い調和音となって、眠い意識を心地よく揺すった。
うとうとしかけていると、息子の康弁《こうべん》が足音を忍ばすようにして入ってきた。
「お目ざめですか?」
と彼は枕もとに寄った。
「蓮華王院《れんげおういん》の宜瑜《ぎゆ》さんが、見舞にお見えです。お通ししますか?」
その小声に運慶はうなずいた。宜瑜なら不快な相手ではない。睡気が去りかけると、人の話が欲しい気がした。運慶は衾《ふすま》の中で身体を動かした。
宜瑜が入ってきた。遠慮深そうに褥《しとね》の脇に坐ると、長い眉毛の下の目を細めて、
「御気分は如何《いかが》ですか? お顔色はだいぶよいようですな」
と上からさし覗《のぞ》くようにして云った。
運慶は、宜瑜の雀斑《そばかす》の浮いている皺《しわ》の多い顔を見上げて、礼を述べた。陽は座敷まで明るい。今日のようなお天気は、外を歩けば気持がよいだろう。その陽ざしの中を健康な足どりで歩いてきた宜瑜が、運慶には多少羨《うらや》ましくないことはなかった。
宜瑜は世間話をはじめた。彼はこの三日に行われた闘鶏の模様を話した。その話し振りが面白いので、運慶は釣り込まれてきいた。その間にも工房からの木を削る音と人声は絶えず聴えた。
宜瑜は闘鶏の話が一段落すると、その工房の音に耳を傾けるようにして、
「いつもお旺《さか》んで結構ですな」
といった。それからつづけて、
「これだけ盛大になれば、あなたも本望でしょう」と述べた。
宜瑜は、運慶がここまで仕上げてきた七条仏所派の成功を賀しているのである。運慶の父康慶《こうけい》までは、いや、彼自身が中年過ぎまでは、彼らは奈良仏師という名で京都三条仏所派からは地方作家として一段低く見られていた。それが鎌倉幕府の援助の下に運慶が一門を率いて活動し、遂に主流となって三条派を衰微させ、この京の七条に仏所を構えてからは、完全に相手を蹴落《けおと》したのであった。今では造仏を依頼する者は、この近畿《きんき》はもとより、関東、奥羽まで及んでいる。七条仏所といえば、名実ともに最高の権威となった。それは運慶が永い間に亙《わた》って目標を立ててきたことなのだ。宜瑜の云った、あなたも本望でしょう、という短い言葉にはこれだけの意味が含まれてあった。
運慶は、それにはあまり気の乗った返事をしなかった。今は、そんな話題には触れたくなかった。無論、宜瑜の賞讃には、それを肯定する満足感が底に横たわっていないではなかったが、仕事の話に調子を合せる気分はどうしても起らなかった。どこかでそれを忌むものが膜のように張っていた。
それは宜瑜が芸術を解さないからではない。現に彼の居る蓮華王院本堂には、運慶が年少の頃に彫った千手観音立像が残っていた。宜瑜はそれを珍重し、自慢にしている。彼もまた今まで運慶を支持してきた数多い中の一人であった。が、それだけに、今は仕事の話を避けたかった。妙に心が鎖《とざ》していた。宜瑜が不用意に吐いた、あなたも本望でしょう、という一語が運慶の心に或る素直さを失わせたのである。
宜瑜は運慶の顔色の浮かぬのを見て、別な話をはじめた。彼はこの三月の上巳《じようし》の日に、或る貴族の曲水《ごくすい》に招じられた。その宴で公卿《くぎよう》たちの歌の披講を聴いたが、当節の公卿どもの歌は末節の技巧に走ってまるでなっていないと批評した。それから一つ一つ辛辣《しんらつ》な短評を試みた。
それは面白かったから、運慶は衾から身体をのり出すようにして聞いた。すると宜瑜はそのあとで、
「なかなか上手が居なくなりましたな。仏師もあなたのような人は後世に容易に顕《あら》われまい」
と云った。話題の雲行がまた怪しくなったので、せっかく開きかけた運慶の心は警戒をはじめた。が、今度は相手は彼の心に気付かなかった。
「安阿弥《あんなみ》どのも相変らず立派な仕事をなさいますな。あの人は次々と宋《そう》の新しい様式を取り入れて、すっかり身につきましたな」
運慶はうなずいた。話題は彼の最も欲しくないところにきた。しかしこれは明らかに不快な表情を露骨に見せてはならぬことであった。運慶は衾のなかで身体の位置を動かした。
宜瑜は、安阿弥の、つまり快慶《かいけい》の賞讃をはじめた。それはありきたりの感想で、運慶には一向に耳新しくない飽いた言葉であった。が、遮《さえぎ》ることは出来ない。彼は顔で相槌《あいづち》をうちながら、心は次第に乾いてきた。
もし、このとき長子の湛慶《たんけい》が註文《ちゆうもん》をうけた造仏のことで相談に来なかったら、運慶は宜瑜の話を際限なく辛抱せねばならなかったに違いない。が、湛慶がそこに入ってきたので、宜瑜のながしりはようやく浮いた。彼は目下土佐《とさ》に流謫《るたく》中の土御門《つちみかど》上皇を幕府が近く阿波《あわ》に遷《うつ》し参らせるらしいという消息を最後に聞かせて腰をあげた。