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小説日本芸譚1-2

时间: 2019-05-22    进入日语论坛
核心提示:   2 宜瑜が帰ったあとでも、運慶の気持は容易に和《なご》まなかった。一旦、投げ込まれた泥はひろがって濁った。悪いこと
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 宜瑜が帰ったあとでも、運慶の気持は容易に和《なご》まなかった。一旦、投げ込まれた泥はひろがって濁った。悪いことに、他人のきかせた言葉を反芻《はんすう》して、あとで棘《とげ》の傷を深くするのが彼の癖であった。
 あなたも本望であろう、といわれたことも一つである。宜瑜は彼の芸術について云ったのではなく、それとは別なことである。彼の造仏技術が京都仏所を圧倒したという意味にうけとるには、あまり単純過ぎるし、たしかに他の内容を感じた。それは芸術に関係のないことである。のみならず、背馳《はいち》の精神と想われるものだった。これまでしばしば云われている運慶の統率力と政治性、つまり悪口で表現される「商売根性」をその言葉は含んでいた。無論、これは運慶の独り相撲の受け取り方であった。しかし宜瑜の何気なしに吐いた一言に、無意識にその内容が無かったとはいえない。それは彼がこれまで受けてきたどの批評よりも、一番彼の心を真黒に塗り、彼を反抗させた指摘であった。
 それから宜瑜が、快慶の名を持ち出したことも心を乱した。快慶の評価については彼は変らぬ計算をもっている。しかるに世間の評価は近頃だんだん甘くなってきていた。運慶から見ると、愕《おどろ》くほど過大なのである。以前には快慶の芸術に冷たかった者も、ひどく寛大になり、いろいろと賞めるようになった。この変化が運慶に気に喰わない。要するに快慶の新しがりの工夫に、何か神秘な附加物を錯覚したとしか思えない。が、快慶と己れとの関係を考えると、運慶は世間のずれた見識に正面から反対することは出来なかった。その不当な忍従が、彼をいつも苛立《いらだ》たせるのである。
「ふん、宋の新様式か」
 運慶は嘲《あざけ》るように呟《つぶや》いて衾のなかで寝返りを打った。
 外は雲も流れないのか、陽は翳《かげ》りもなく相変らずこの座敷に明るい。木の音と定慶の高い調子のまじる人声とは依然として聴える。運慶はもう一度、この懈い雑音の中に睡ろうと思った。
 が、一度、妨げられた平静は容易に心に帰って来なかった。眠りたくも、睡気はどこかに去ったままであった。運慶はまた寝返りをして萎《しぼ》んだ瞼《まぶた》を塞《ふさ》いだ。思考の方は冴《さ》えるばかりである。運慶は諦《あきら》めて、考えの湧《わ》くままを追うことにした。そのうち眠りに誘い込まれるかもしれないと思った。
 一体、おれが快慶を意識したのは、いつ頃からであろう。——と運慶は考えはじめた。
 
 ——運慶の父の康慶は、東大寺の附属の仏師であった。父だけではない、祖父の康朝《こうちよう》も、その父の康助《こうじよ》も、その前の頼助《らいじよ》も、悉《ことごと》くそうであった。それを辿《たど》ってゆくと定朝《じようちよう》になるのだ。奈良に住んでいたから、世間では奈良仏師といった。
 父の康慶は、その名前で云われると嫌な顔をした。中央の仕事をしている京都仏師からくらべて、所詮《しよせん》は田舎仏師だという軽蔑《けいべつ》の響きがあった。父はそれを弾《は》ね返そうとした。弾ね返す——それは造仏の技術でゆくより仕方がない。京都仏師に無いもの、異なったものを康慶は造り出そうとした。その血を運慶は完全に享《う》けたと思っている。
 彼は親父について童《わらべ》のときから彫技を習った。鑿《のみ》の使い方を覚え、八寸角の樟《くす》の材が荒取りから次第に仏像に移りゆく歓びを知った。康慶はたいてい眼を光らせて彼の手先を見詰めたが、時には何とも云えぬ表情がその眼に映っているのに、ぶっつかることがあった。実際、康慶は他人《ひ と》には、彼に望みをかけていると語ったものらしい。そのころ快慶が居たかどうかさだかな記憶が運慶にない。何しろ弟子は大勢いたし、技術はほとんどみんな同じ位であった。そうだ、あの頃は快慶は彼の意識になかった。
 父の康慶は何かを創り出そうとしたが、まだ発見には到着していなかったと運慶は思う。その証拠に彼が十七、八のころに父の指図で造った蓮華王院の千手観音は在来のものと型が殆ど同じである。定朝が造り出した様式から脱けてはいなかった。どんな才能ある人間でも、時代の様式の固定観念の中に、暫《しばら》くは跼《かが》まねばならないのだ。
 康慶の仏所は奈良に在った。仕事は東大寺や興福寺の造仏や修理であった。東大寺には天平の仏像が数知れず安置してある。その修理に従うことで、康慶たちは天平の古仏に毎日親しんできた。だが、それに憧憬《どうけい》し、その容《すがた》を取り入れようと彼が思い立ったという考え方は妥当のようだが、時間的な飛躍がある。時代の様式の呪縛《じゆばく》は、そこまですぐに解放はしない。
 それに造仏は仏師たちが勝手にやるのではもとよりない。註文をうけてからかかる職人仕事なのだ。願主という註文主の意に叶《かな》わなければ一体の仕事もない。それから註文主の方が時代の様式に何よりも忠実であった!
 この様式の規律と、四百年以上の時間的な距離の観念に妨げられて、康慶たちは天平仏に親しんでも、まだ密着がなかった。驚嘆はあっても、それが彼らの技術や仕事に密着しない限り、ただの観賞者に過ぎない。彼らの眺める眼は、まだ遠いものであった。
 運慶は二十五、六のころに、円成寺《えんじようじ》の大日如来《だいにちによらい》像を造った。父の指導で、ほぼ一年がかりで仕上げた。この出来は大そう見事だったので康慶も賞め、願主もよろこんだ。だが、これも時代の様式に従ったというに過ぎない。
 あの頃は、快慶もさほど目立たなかった。何しろ、みんな同じようなものを造っていたからな。——運慶は眼を閉じながら、そんなことを思いつづけた。
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