だが、一つの情景が運慶の記憶にある。そこだけは、陽が射し洩れたように明るい。
運慶は父の康慶と一緒に高野山《こうやさん》に詣《もう》でた。いつだったか忘れたが、何でも早春の日であった。諸堂の諸仏を拝して廻るうちに遍照院《へんじよういん》の一隅に忘れたように置かれた仏像があった。暗い場所だったから、それを大日如来像と判じるまでには、いくらかの時間を要したくらいだ。運慶は案内の僧から燭《しよく》をかりてそれを仔細《しさい》に見た。それは他の仏像とは違っていた。何か粗《あら》い感じのする作風であった。
「これは、おれの親父、つまりお前の祖父の康朝が作ったのだ。当時は願主に気に入らなかったのだな。造りが大そう粗いという叱言《こごと》を喰ったのだ。だから今にこんな隅に影のように置いてある」
康慶は運慶の耳にそうささやいた。
運慶はそのときの印象を忘れていない。なるほどその彫刻の仕上げは粗い。しかし何か異なった生命のようなものが籠《こも》っていた。生命——様式の巧緻《こうち》から落第したその疎荒にである。妙な生々しさが動いていた。
外に出ると早春の風はまだ冷たかった。が、頬はほてっていた。今みてきた大日如来像が眼から離れない。東大寺諸堂に安置された天平の諸仏が、急に時間を縮めて彼に逼《せま》ってきたのは、この瞬間からである。彼の心に四百数十年の時間の壁を叩き壊す槌《つち》の役目をしたのはわずか二十年前という康朝の作品であった。
天平仏と運慶との距離は、そうなれば、時代の距《へだた》りではなく、空間だけとなった。いま空気を吸っている現在の様式から脱れても、次の表現は宙に迷う。その落着く次元を発見して、運慶は眼が開いたと思った。彼は、はじめてこの早春の陽ざしのように明るそうな眼付きをした。
然し、次の運慶の記憶はもっと鮮烈なものであった。それは炎の記憶なのだ。
夜空をいっぱいに火が焦がしていた。火は冬の烈風に煽《あお》られて狂い舞っているが、風はもっと凄惨《せいさん》なものを耳に運んだ。何千という人間の叫喚だった。治承《じしよう》四年の極月《ごくげつ》、頭《とうの》中将重衡《しげひら》が四万余騎で南都を焼いたときのことであった。
運慶は春日《かすが》山内に避難してこの光景を眺めていた。ここから見ると奈良は炎の海である。興福寺の東金堂《こんどう》の屋根が焼ける。西金堂も火がついている。五重塔と三重塔は火柱となって焼け落ちた。すぐ眼の下にある東大寺の大仏殿は炎上の旺《さか》りで、逃げかえってきた者が話しているのをきくと、大仏殿の二階の上には二千人あまりが焼死しているという。金銅《こんどう》十六丈の廬遮那仏《るしやなぶつ》は御頭《みくし》がすでに地に落ちたと語った。講堂、食堂《じきどう》、廻廊、中門、南大門はすでに跡かたもなく焼けたというのだ。興福寺の方は消息は知れないが、北円堂、南円堂、観自在院、大乗院、五大院、伝法院などの位置はみんな火に包み込まれていた。
天平の諸仏体は、いまこの炎の中に消滅し去ろうとしている。運慶は炎を凝視していた。凝視しているのは、実は、不空羂索《ふくうけんじやく》立像や四天王立像とその足下の鬼形や、八天像、十大弟子像、十一面観音像などの素描であった。
運慶は、その焼失を不思議に惜しいとは思わなかった。惜しいと思うのは、尋常の観念だと考えた。いつでも見られる眼前の具象が残ることは、かえって邪魔なのだ。それが心のなかに、いわば形而上《けいじじよう》に結像することで、精神は満たされ、発想は自由となる。運慶はそんな身勝手なことを考えて、燃え狂う火を群衆と共に、眺めていた。すると、横でしきりと炎に向って合掌して歔《な》く者がいる。彼は口の中で、
「恐ろしやな。天竺《てんじく》、震旦《しんたん》にもこれほどまでの法難はあるまい」
と呟いては、泣きながら経を誦《ず》している。
運慶はその男の顔を見た。それが父の康慶の弟子の、快慶であった。
運慶は忽《たちま》ちこの男を軽蔑した。これは畢竟《ひつきよう》、尋常な人間なのである。彼は鑿を振う彫技をよくする。しかし、世俗な、といって当らなければ、普通の悲しみしか彼には無いらしい。天平の諸仏像が焼けてもちっとも惜しくない、いや、心のどこかではそれを希《ねが》っているような冷酷な精神をもっているおれの方が、こいつより少なくとも芸術の天分は一枚も二枚も上手《うわて》だと彼は自負を感じた。爾来《じらい》、このときの感想が、快慶に対して、運慶は抜け切れなかった。
南都炎上のあとは惨憺《さんたん》たるものであった。東大、興福の二寺は殆ど全滅である。堂塔、諸院、諸房、諸舎四十数宇を焼失し、残る所は、羂索堂、禅定院と近辺の小屋少々、新薬師寺西辺の小屋が少しばかりであった。
康慶は落胆して、自失した。
「われらの仕事もこれで終りであろう」
と嘆く。興福寺をたよって仏所を構えていた彼にとっては、生活を失うことにもなろう。
然し、中央の政局は変動していた。平氏が転落して、頼朝が鎌倉に幕府を開いた。二寺が炎上して四年後であった。
この新しい支配者は、鎌倉に腰を据えて、決して入京しようとはしなかった。その代り東大寺と興福寺の復興には恐ろしく力を入れてきた。
その計算がどこから出たか推察するのは容易である。頼朝は鎌倉から遠い京畿《けいき》の人心を宗教を楯《たて》に収めようと考えたのだ。彼は信仰の保護者になればよいのである。敵が破壊したあとだから効果は困難でなかった。要するに彼は二寺再建《さいこん》の願主になることで、中央の保持を狙ったのだ。
新しい空気の流れるのが感じられた。いまの様式を破っても、この願主はきっと気に入るであろう。すでにどうにも動きのとれなくなったところに来ている定朝以来の様式である。観念も鑿も釘《くぎ》づけになって衰弱するばかりなのだ。
「今度は、やれる」
運慶は、天平仏の素描を幸福そうに心に浮べた。野心が若々しい表情で充実してきた。——今、運慶が眼を瞑《つむ》って想い出しても、軽い昂《たかぶ》りを覚えるくらいである。