運慶は、それからそれへと、沢山な自分の造仏の歴史を思い泛《うか》べた。まず、伊豆韮山《にらやま》の願成院の不動明王、毘沙門天《びしやもんてん》の二像である。この寺は北条時政が奥州征伐の戦勝を、祈願するために建立した寺だ。この制作で運慶ははじめて鎌倉にその存在を識《し》られた。
勿論《もちろん》、仏師運慶の名は早く知られていたが、そのころは院尊《いんそん》、明円《みようえん》の二大家が居る。その光のために、運慶はもとより康慶も影が薄れていた。院尊、明円の二派は、定朝以来の典雅な伝統を墨守している正統である。いや、系譜の上では康慶が定朝の直系なのだが、その芸風は傍系の彼らがかえって直系であった。芸術は系譜にはよらない。
北条時政が何故《な ぜ》運慶を名指したか、実際の理由は彼にもよく分らない。恐らく院尊も明円も、今まで平氏の発願による造仏に多く携わってきたから、ここらで運慶に一つ仕事をさせてみようとの議が起ったのではあるまいか。その証拠に、本尊は頼まずに、脇侍《わきじ》の二天だけを註文してきた。
この註文の仕方は運慶にとって仕合せな結果となった。何故かというと、彼の作風は動きの無い本尊仏よりも、動きのある忿怒《ふんぬ》相の荒々しい彫像に似合うのだ。それを眺めるのが、力で政治を闘い取った鎌倉武士なのである。運慶が設定した動勢に、新興の実力者は理解よりも精神の融合が先にきた。——このときのことは、後で運慶が大へんな政略家であったという悪評を仏師仲間から得た。
それは鎌倉幕府が、次々と康慶と運慶一門を造仏のことに起用したからであろう。時には明円から烈しい抗議が出たくらいであった。
運慶は、そのころの自分の作品を振りかえることができる。父の康慶と共に造った興福寺南円堂の不空羂索観音と四天王、法相《ほうそう》宗六祖《ろくそ》像、東大寺脇侍の虚空蔵菩薩《こくうぞうぼさつ》像、神護寺講堂の仏像、京都東寺の仁王と二天像——それらが、今にありありと眼底に遺《のこ》る。いずれも定朝様式の柔和な、優雅さはどこにも無かった。天平仏の素描の上に、自己の創意を積み上げたのだ。
その新鮮さが喝采《かつさい》を得た。政治機構は武家のものに変り、貴族は転落した。運慶の芸術はその思想に寸分の隙もなく呼吸を合せたことになる。
東大寺と興福寺の復興は政治の援助でどんどん捗《はかど》った。運慶に場が与えられたのは自然の成行きである。一度、迎えられた芸風は一門の作風の方向を決定する。康慶も定慶も快慶も湛慶も、運慶の指向に足を合せた。
院尊と明円は、蓮華王院の丈六阿弥陀《あみだ》像や興福寺金堂の諸仏を造って、依然として老大家の働きを示しはしたが、運慶の眼からすれば、歯牙《しが》にかけるにも足りない。彼らの固定化した様式には衰微の影が濃いだけである。
運慶は、つまりはこの固定化した観念の遺物様式に反逆したと自負している。おとなしいだけで躍動のない線、約束を守って生命の無い彫法、死人のような面相や姿勢にである。その前に拝跪《はいき》する人間とは、間に何の繋《つな》がりも無い。
運慶は仏像を生けるがままに具象化しようとした。玉眼に水晶を嵌《は》め込む技法は、その現実感を一層効果的にする。抽象には何かがあるかも知れないが、それを感じ取るまでには時間と忍耐を要する。写実は瞬時の躊躇《ちゆうちよ》なく直截《ちよくせつ》に訴える。それが見事な出来であればあるほど、素朴な感嘆を与える。作家の精神が、民衆の距離のない感動に融け合うのだ。もともと信仰の本質は感動ではないか。
こんなことを考えて、運慶は改めて、その頃の快慶を振り返ってみた。当時の快慶は彼の意識に疾《と》うに上っているほどの大作家であった。この意識というのは競争相手としての意味なのだ。
運慶が仕事をすすめているように、快慶も頗《すこぶ》る仕事をしていた。播磨《はりま》浄土寺阿弥陀三尊像、東大寺大仏殿観音菩薩像、滋賀円福院釈迦《しやか》如来、京都遣迎院《けんごういん》釈迦阿弥陀二尊像、高野山金剛峯寺孔雀明王《こんごうぶじくじやくみようおう》像、東大寺僧形八幡神《そうぎようはちまんじん》像、文殊院《もんじゆいん》文殊五尊像、伊賀新大仏寺本尊像など、数えてみれば仕事は運慶より多いくらいにしている。
運慶は、この父の弟子を殆ど自分に近い才能の持主だと思っていた。しかし彼は快慶を一歩の距離に置いて見ている。それは自分が彼の師匠の伜《せがれ》であり、今や一門の統率者であるという意識からではない。また、快慶が善良で、何かと謙遜《けんそん》な態度に出ているからでもない。
快慶の仕事を見ていると、写実に走りながら、どこか弱々しい一点がある。表現は巧妙であるが、重量感が足りない。すさまじい迫力が感じられないのである。
それはどこからくるか。快慶の作品には写実の中に、まだ定朝様の様式が未練気に残っているのだ。あの柔和な、弱い線が黄昏《たそがれ》のように尾をひいている。——
それは多分、快慶の性格から来るのであろう。新しい作風に向いながらも、まだ古い様式をふっ切れずにいる彼の性根は、奈良炎上の夜、二寺の堂舎の炎に向って欷泣《ききゆう》しながら経を誦した善良さに通うのである。運慶は、同じ場所に立って炎上を見物しながら、古仏の焼けるのを心のどこかで期待したではないか。芸術家としての根性は、おのれの方が一枚うわ手だとあのとき快慶を軽蔑した。現在、一歩の距離で彼を見ているというのは、彼の彫像の上に低迷する優柔さを思い合せて、結局はその蔑視なのである。
すると、その快慶の作風を好んでひいきにする男があった。東大寺復興の事業をなし遂げた、大勧進重源《ちようげん》である。
運慶は、衾の中で眼を薄く閉じながら、入寂して今は亡い重源の老いた顔を思い出す。