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小説日本芸譚1-5

时间: 2019-05-22    进入日语论坛
核心提示:   5 重源がなぜ快慶を好んだか、その理由ははじめ定かでなかった。 そのうち、重源の口から、運慶の作品について、こうい
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 重源がなぜ快慶を好んだか、その理由ははじめ定かでなかった。
 そのうち、重源の口から、運慶の作品について、こういう言葉が洩れたと伝わった。
「運慶の造った仏像は、あんまり人間臭くて感心しない。仏像は尊厳さが第一だ。写実も結構だが、ああ仏放れがしていては、仏という感じに遠くなる」
 重源は、入宋《につそう》三度に及んだ知識僧である。その人がそんな批評をした。
 運慶はそれを耳にしたとき、思わぬ弱点を衝かれたと思った。が、作家は批評家に弱点を指摘されても容易に承服しない。それが急所をついていればいるほど反抗する。運慶は狼狽《ろうばい》を感じながらも、
「何、重源なんかにおれの芸術が分るものか」
 と思った。
 それなら定朝様式を守ってよいのか。あの死物のような造形、衰弱している様式、石にも等しい生命のない彫像、どこに魅力があろう。それにおれは反逆したのだ。おれの造った仏像はみんな生きている。躍動がある。緊張と迫力がある。それが観るものに感動を与えている筈だ。みんなその新鮮さと充実感に感嘆している。重源が小賢《こざか》しいことを云って、何を知ろうと思った。
 だが、この反駁《はんばく》には矛盾が潜んでいた。
 それは重源が快慶を贔屓《ひいき》にする理由を、運慶が理解する心理にである。快慶の造像に纏《まつわ》っている定朝様の名残りの優雅な線に、重源は心を惹《ひ》かれていると分った。その部分に、重源は仏の尊厳を見出したのであろう。そうだ、と解った。——定朝様の部分に重源が惹かれている訳が解るところに、運慶の撞着《どうちやく》があった。運慶は定朝を破壊したが、仏像の神秘まで破壊しなかったろうか。仏像をあんまり人間の写実に近づけて、そこに想像の余地まで侵さなかったか。——
 運慶は、快慶に或る嫉《そね》みと軽蔑を感じた。
 嫉みは、快慶が重源の殊遇をうけていることではない。また、その眷顧《けんこ》の下に、種々な造像の仕事を与えられていることでもない。或いは、快慶が重源に私淑して、安阿弥陀仏と号したほどの両者の親密さに向ってでもない。つまり、快慶が動的な、写実を志しながらも、そのような静寂を残すところに嫉みを覚えたのである。
 軽蔑はいわばその裏返しである。動と静の両方を快慶が同居させている妥協性に彼は軽侮したのだ。そのことは、快慶が、重源の持ち帰った宋の仏像の様式を無批判に受け入れたときに一層募ったのである。
 ところが、重源の運慶に対する批評が世間に洩れたとみえ、今まで絶讃されていた彼の作品について、一部でいろいろ云う者が出てきた。
「運慶の仏像は人間臭い。あれでは拝む気持になれない」
 というのである。世の中の批評家というものは、誰かの云ったことを口真似して、同じようなことを云うものらしい。運慶は腹が立った。
 建仁《けんにん》三年には、竣工《しゆんこう》した東大寺南門に入れる金剛力士像を運慶は快慶と一体ずつ受けもって仕事することになった。二丈八尺の巨大な寄木造りである。
 これは「阿《あ》・〓《うん》」の一対の形像であるから、対照に統一がなければならない。運慶は〓形像をうけもつことにし、阿形像を造る快慶に作風の歩調を合せるよう打ち合せた。打ち合せというよりも、彼の態度は云い渡したというに近かった。康慶はすでに亡くなり、運慶が一門の統率者として支配の地位に立っていた。年齢《と し》も、もう六十近いのである。
 快慶は、肚《はら》ではどう考えているか知らないが、とも角、師匠の子として、また一門の当主として運慶に従順であった。それだけの礼儀をもっている男であった。彼は素直に運慶の指示にうなずいた。
 何ぶん前代未聞の巨像である。技術的にいうなら、頭から胴、足までの中心材には何本かの角材をたばねて用い、張り出した腰や裳裾《もすそ》には別の矧木《はぎ》をつけ、腕は屈節のかわる毎に材を別にした。そのほか、いろいろな場所に矧木や埋木《うめぎ》がある。寄木造りといっても、こんなことは今までやったことがなかった。
 運慶は雛型《ひながた》を造るときに、この造像に思い切った誇張を試みた。肉体の隆起、筋肉の誇張、裳裾の翻りにも、緊張感と重圧感を盛り上げた。彼の会心の試みであった。だから七月の末から十月の初めにかけての制作は、小仏師十数人を指揮して、精力の全部をこの仕事にかけた。
 だが、快慶の阿形像を見て、運慶は驚嘆した。よくもこれだけおれに合せたと思った。それから彼の才能にも今さらながら愕いた。そこには快慶が今まで未練気に持ちつづけてきた迷うような静寂はどこにもない。歪形《わいけい》に近い写実の誇張は運慶に逼っていた。運慶はこの異常な職人に圧迫さえ感じた。
 南大門の金剛力士の二像は、果して喝采をうけた。それは運慶が期待した通りなのだ。作品は最も適した対象を得て、一番の精彩を放つ。殊に写実の世界ではそうなのだ。
 ところが感嘆の瞳《ひとみ》を輝かして見ている群衆の中で、嘲るようにこう云って群から離れる者があった。
「あの誇張は少々嫌味だな。運慶の臭味《くさみ》がそのまま拡大されているではないか。第一、あんな人体ってないよ。骨も筋肉も間違っている。いくら誇張だといっても、あれはひどいよ」
「そうだ」
 とそのあとからついて行く者が相槌を打った。
「演技だけでごまかしている作品だ。それに、あれは、どっちが運慶か快慶か分らんじゃないか。快慶をあれほどまでに自分に統制するとは、運慶って奴はすごい統御力をもった男だな」
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