運慶が、快慶や湛慶、定慶、康弁、康勝などの一門を率いての目覚しい活動は、早くから大そうな独裁者だと世間に見られていた。それは直ぐに、時の権力者に如才なく取り入って夥《おびただ》しい註文をとってくるという「政治手腕」にも評判は結びつくのだ。実際、運慶の勢力は、競争相手の院尊の院派、明円の円派を圧倒して、時の主流になっていた。その印象が世間に拡大される。あいつは怪物だと評する者がいる。
商売上手だという者もいた。そうでなければ、あの一派だけであれだけの仕事は取れまい。それに絡んで、運慶が奥州の豪族から頼まれて造った仏像には、円金百両、鷲羽《わしのは》百尻《しり》、絹千疋《びき》、駿馬《しゆんめ》五十匹、白布三千端、そのほか莫大な珍品を報酬として要求したという根も葉もない噂《うわさ》まで立った。
ここには芸術が真黒に消されていることは勿論である。しかし芸術家とは、巧緻な職人である。その生活が盛大になれば、こんな批評をうけるのは仕方がない。しかし、作家は己れの評判は芸術にあると信じたいから怒るのだ。その劣等感が、批評に、殊にこんな世俗的な批評に反抗のかたちで出る。
運慶は、自分が己れの一派を率いているという自覚は否定はしない。しかし自分が集団をもたなければ、どうして円派、院派を打倒出来ようか。個の作家がいくら闘志を湧かせてみても、派閥の土砂に埋没して了《しま》うのだ。
だが——と運慶の眼はじろりと快慶を見るのである。異物を見るような眼で呟くのであった。
「どうも、あいつはおれの仲間ではないようだ。変な方に曲ってゆく」
近ごろの快慶の作風を見て、運慶は再び軽蔑をはじめた。
快慶は宋の仏像様式に心酔しているようである。もともと宋の仏像を持って帰ったのは、入宋三度の経歴をもつ重源である。快慶が私淑している重源であるから、その影響をうけたことは明瞭であった。或は重源のすすめによったのかも知れない。
快慶は己れの造仏にひたすら宋の様式を附加してゆく。それが新しいと世間では迎えている風であった。運慶は余計にそのことで苛立って軽蔑する。
「前からそんな男だ」
と思うのだ。現実的な写実に向いながら、定朝様の柔和も残して置く彼のことである。今度、宋様をとり入れても不思議はない。あれも取りたい、これも取りたい、徹底し切れない奴だと嘲笑したくなる。
「まあ、いい。おれはおれの仕事をとことんまで追い詰めてゆくだけだ」
丁度、興福寺から北円堂に安置する無著《むじやく》、世親《せしん》の二像を頼まれている時であった。これこそ全力を打ち込んで取り組んでみようと決心した。すると、いつの間にか、快慶に対してむきになっている自分を見出した。——彼の快慶への真剣な軽蔑は、実は快慶の幅のひろい芸術に対する怯《ひ》け目が意識の下に潜んでいるのではないか。それに気づくと運慶は血眼《ちまなこ》になった。
彼は、いよいよむきになった。それこそ敵《かたき》でも居そうな激しさであった。
北円堂の前の広庭に仮屋を建て、蓆《むしろ》をしいて鑿を振った。世親、無著の顔は勿論どんなものか知らない。しかし彼の頭の中には、はっきりとした幻像が出来ていた。一人は枯淡な老僧の俤《おもかげ》にしよう。一人は壮気に満ちた逞《たくま》しい骨格の僧にしよう。眼、口もと、両手の構え、姿勢、着衣の襞《ひだ》の流れ、それぞれの対比を歴然と彼の頭脳は描き分けていた。
すると或る日、広庭の青竹で組んだ矢来の外を二人の若者が通りかかった。彼らはちょっと足を止めて仮屋の方を覗くようにしていたが、
「これが運慶の仕事場か。今度、世親と無著の像を彫るそうじゃないか」
と、一人がいうと、伴《つ》れは返事をしないで、とめた足を動かした。歩きながらその男は、
「運慶か。もう古いな。大体、あいつのものは人間臭くて本尊なんか彫れやせん。せいぜい肖像くらいのもんだ」
と軽く云い捨てると、二人のならんだ姿は陽炎《かげろう》のさす猿沢池の方へ下りて行った。
工房からは依然として雑音が絶えない。相変らずそれは懈い調子で耳に伝わってくる。
「もう、古いか——」
寝ている運慶は口の中で寂しそうに呟いた。
ふん、宋様か、とさっきも鼻で嘲りはしたが、それが新しい流行なのだ。現に自分の息子の定慶なんかは、おれの気持には一向平気で、さかんに宋様式をやっているではないか。この間もあいつの彫ったのを見たが、複雑な、うるさい着衣、わずらわしいくらいに賑《にぎ》やかな文様を克明に造り出している。おれは軽蔑するが、それが新しい様式なのだ。丁度、おれが定朝様式を破壊して新様式を造ったように。——
自分では、随分と新しがっても、気づかぬうちにいつか時代の流れに古びてしまう。おれはもう死ぬかも知れない。快慶のやつはおれより永生きして、まだまだ働くに違いない。世間ではあいつの作風を安阿弥様《よう》といって迎えているそうだ。しかし、いくら快慶が新しがっても、いまにその様式は古びて廃《すた》れてしまうのだ。
すると作品というものは——運慶は、もう一度、東大寺、興福寺も炎上して、悉く自分の彫像が灰になればいい、と思った。
その年の十二月十一日、運慶は死んだ。